[増加する会員・名称変更]

会員は徐々にではあるが増え始め、東京中心で始まった組織に他エリアの会員も加わり出した。このため、36年(1961年)4月の総会で、名称を「モービルハムクラブ」から「JMHC」に変更するとともに、石川さんが会長職を辞し、新たに山田豊雄(JA1DWI)さんが選出される。石川さんは「組織・活動が軌道に乗った」と、後進に道を譲ったのである。石川さんは名誉会長に就任する。

ハンディ機PRC-6で交信する山田さん

また、組織も地区別とし、東京を城南、城西、城東、三多摩に4区分し、横浜のほか、地方区を設けた。昭和37年(1962年)3月には会員は47名となった。このころになると、米軍通信機の放出は少なくなり、代わってタクシー無線の通信機が活用されるようになる。このため「会報」にも、タクシー無線機の改造方法などが詳しく掲載されるようになった。

タクシー無線は昭和28年(1953年)に60MHzが許可され、昭和39年(1964年)に400MHzに移行する決定がなされた。実際には昭和46年(1971年)までに切り替えれば良かったが、昭和41年このような周波数変更とは別に、昭和30年代半ばから中古機の60MHz機がアマチュア無線用に市場に出回り始めた。

[山田製作所]

石川さんから会長職を引き継いだ山田さんは、自動車グリースポンプ、オイルポンプ、工業用ポンプの大手製造業「株式会社ヤマダコーポレーション」の社長である。同社の前身は明治38年(1905年)に創業され、桶を製造していた「伊勢屋」であった。その後、同社は水道の普及を予測し、バルブ、コックなどの水道用部品製造に転進する。大正12年2月、社名を山田製作所に改める。

現在の同社主力商品の「注油ポンプ」の製造に乗り出したのは、山田さんのお父さんである正太郎さんの時代である。輸入車が圧倒的に多く、国産車が少ない時代ながら自動車の普及が始まったのが昭和初期。自動車時代に目をつけての新規事業であった。やがて日本は日中戦争を経て太平洋戦争に向う。

そのような戦争に向って突き進み始めた昭和5年に山田さんは生まれた。したがって、物心のつき始めた少年時代、青年時代は戦時下であった。昭和14年、会社は「株式会社 東京山田油機製作所」に改組される。「注油ポンプは」戦車、上陸用舟艇など軍用にも使用され需要は拡大していくが、やがてこれらの需要も減少。資材不足から生産が少なくなったためである。

[戦後の復興]

米軍による日本本土爆撃が始まり、山田少年の家族もばらばらに地方への疎開せざるをえなくなる。当時、慶応商工学校の生徒であった山田少年は父とともに会社の疎開先のひとつである秋田県横手に移り、横手工業学校の生徒となった。このころ、同じように中島飛行機製作所の関係会社が横手に疎開しており、学徒動員では同工場で働く。そして、昭和20年8月15日の終戦。

父正太郎さんは、終戦後即座に有り金をはたいて静岡県の伊東市に土地を求める。戦後の経済動向を予測しての行動であった。山田少年も横手から伊東に移ったが、そこで無線と遭遇する。戦後、南方から引き上げてくる兵士との連絡が伊東市にあった施設で行われていた。電信により交信されている様子を見て興味をもった山田少年は、そこに入り浸った。「当時は停電も多かったので,エンジン発電機を設備し、確か14MHzより下の周波数を使っていたと記憶している」という。

山田さんのお父さんである山田正太郎さん

その後、山田さんは日大工学部予科に入学し三島校舎に通う。一方、「東京山田油機製作所」の復興も始まり、昭和22年(1947年)には「山田油機製造株式会社」に社名を変更し、25年(1949年)には東京に工場を新設する。日大に通学していた山田さんは「遠方と通信ができる無線をいつかやりたい」と思い、当時、発行が始まったラジオ雑誌や無線雑誌を読み、ラジオ受信機を組立てては壊していた。

[山田さんハムに]

しかし、学業を断念しなければならない事態となる。「会社復興のために手伝ってくれ」との父親からの要請を受けて、昭和23年(1948年)に「山田油機製造」に入社、主に研究、技術部門で働くことになる。仕事は多忙であったが、無線も忘れられなかった。戦争により停止されていたアマチュア無線も昭和27年(1952年)に再開され、山田さんの周辺にもハムになる人がちらほら出始めた。

東京に移ってからは無線部品が手に入る秋葉原も近くなった。同じ社内には渋谷昇三(JA1AQA)さん、市島徳一(JA1GNQ)さんがおり、山田さんは教えを受けて、部品集めを始めた。当時は送信管として知られていた807も揃えた。しかし「仕事があり組立てるのはあきらめた」と山田さんはいう。

昭和34年(1959年)、山田さんが常務から副社長に昇格した年であった。会社は順調に成長を続け、現在の本社所在地に本社ビルを建設することも決まった。やや余力のできたこの年に、山田さんはアマチュア無線の免許を取得し、長い間あこがれていたハムになった。

このころのアマチュア無線は7MHzの全盛時代であった。「水晶制御の時代であり、水晶が高かったことを思い出す」という。仕事の合間を縫うようにして、7MHzそして、14MHzに挑戦した。しかし、ハムが増え始めるとともにこれらの帯域も込み合ってきた。

戦時中に疎開した中島飛行機製作所に動員された山田さん(前列右から2人目)