[葭谷さんのラジオ少年時代]

JMHC関西の会計担当として、寺田さんとともに活動していた葭谷さんは昭和11年生まれ。16歳の時にアンカバー通信をしたために、免許の交付を遅らされた体験をもつ。葭谷さんがラジオに興味をもったのは、やや遅かった。大阪市の上宮高校に入学してからである。当然のことながら鉱石ラジオの組立てからスタートし、管球式ラジオの自作に進む。「当時、高校には他に無線に興味をもっているラジオ少年がいたかどうかわからなかったので、独学で勉強した」という。

無線通信が禁止されていた太平洋戦争が修了すると、アマチュア無線再開の活動がすぐに始まり、ラジオや無線通信の技術雑誌が発行された。したがって、そのころには教材には事欠かなかったし、大阪の日本橋には電子部品や材料も揃い始めていた。昭和26年(1951年)6月には第一回のアマチュア無線技士国家試験が行われ、いよいよアマチュア無線の再開が近い、という雰囲気が漂いはじめていた。

葭谷少年は、学業も放り出して無線機に熱中していたが、そのため高校2年のころには短波送信機を自作するまでになっていた。一方、国家試験に合格し開局申請をしていた30名に昭和27年(1952年)7月末予備免許が下りた。1カ月後の8月27日、5局に本免許が与えられ、戦後始めての日本人によるアマチュア無線の波が日本の空を飛びまわった。

大阪で開かれた「807の会」の席上で挨拶する葭谷さん

[アンカバー通信]

送信機まで組立てていた葭谷さんは、このようなアマチュア無線界の情勢に心を躍らせるとともに「電波を出したくて矢も盾もたまらないようになってしまった」という。昭和27年(1952年)8月5日、葭谷さんはついに電波を出す。アンカバーでのコールサインは「JA6IP」である。交信はしっかり電波監理局に傍受されており、葭谷さんは手入れを受ける。

「とにかく驚いた」という。「家から連行されて行った先で見せられたのは、交信内容がすべて録音されていたオープンリール式の録音テープ5、6巻だった。電波法違反の正式逮捕状も用意されていた」という。高校生であるということで、始末書を提出するだけで済んだが無線機は没収された。「しばらくすると、その無線機が日本橋の5階百貨店で売られているという情報が入ったので、買いに行った」という。

葭谷さんはその無線機で再びアンカバー交信をし、電監に呼び出される。したがって「今でも交通違反をした時など、前歴照会されると2件の前歴が出てくる」と苦笑する。この2回の違反により、葭谷さんは昭和29年(1952年)に従事者免許を取得したにもかかわらず、予備免許交付は半年ほど送れてしまい「そのためにJA3IGの遅いコールになってしまった」と残念がっている。

[モービルとの出会い]

開局してからの葭谷さんは、HFで活発にDXを開始する。しかし、この項はモービルの連載である。アンカバーの少年時代やHFでのアワード取得、海外でのペディションなど「ハム生活」の全貌については、今日(9月9日)から始まる別な連載で詳細に紹介する。このため、この連載ではこの程度に止めておきたい。

アンカバー通信2回の逮捕歴をもつ葭谷さんは、3大学に通学したという通常考えられない経験をもつ。自転車製造卸と不動産業を手がけていた家の仕事を継いだのが昭和33年(1958年)ごろであった。車で全国を駆け回る仕事でもあった。必然的に車に無線機を積み込むことになる。

[寺田さんを知る]

寺田さんと知り合ったのもそのころである。「昭和37、38年(1962年、1963年)ころ、最初は自作の3.7MHz機や7MHz機を車に載せて、2m半のアンテナをバンパーに溶接して走り回ったのが最初」という。その後、寺田さんと一緒にJMHC東京を訪問したり、全国大会にも出席した。

寺田さんや葭谷さん、藤田さんらがJMHCという組織があるらしいと知ったのは、昭和37年(1962年)だったようだ。この年の5月5日、寺田さんは神戸の六甲山ホテルに移動中のJMHC東京のメンバーと桑垣さんとの交信を聞いており、記録に残している。

OECの大阪・泉南地区での災害訓練(昭和37年5月)

[JMHC東西の交流]

この時、東京からは園田直行(JA1AEW)さん、近藤栄一(JA1AOU)さん、来栖修(JA1BZF)さん、市島徳一(JA1GNQ)さんら6人が桑垣さんを訪ねており、寺田さんは「その交信をワッチし、JMHCの存在を知った」という。さらに、翌38年の3月には、東京から山田豊雄(JA1DWI)さん、藤田進(JA1EQI)さんが、大阪を訪問し、寺田さんらと会っている。

この時の模様は「JMHC会報」NO5に簡単に掲載されている。それによると「JMHC大阪支部(仮称)設置の件に関し・・・・・近く正式決定、発足するとのことであった」さらに、この年の8月の動きとして「JMHC関西地区各局上京」として、次ぎのように紹介されている。

「8月17日、JMHC関西地区JA3AMQ他6局は4台の車で上京された。午後8時東京タワー下で関東地区の各局と落ち合い、ボーリング場で食事をしながらミーティングを行った」と。寺田さんの記憶とはボーリング場のミーティングは一致しているが、上京した車の台数が食い違っている。