[ハムの育成]

七尾市に開店した2年後にはJARL北陸支部の監査指導員となり、昭和40年ころからはモービルハムの仲間集めを始める。金沢から七尾に移って間もない受川さんの回りにハムが集り出したのは受川さんの「面倒見」の良さが理由と思われる。店内の無線機に関心を見せるお客には丁寧にアマチュア無線のおもしろさを話し、免許の取り方までも親切に説明する。

受川さんは車にモービル機を載せてJMHC能登クラブを引張った

「倉屋」店内で無線機を見て、無性にハムになりたくなってしまったお客は少なくないが、その一人である中山隆(JA9UY)さんは、後にその時の様子を「JMHC能登ニュース」に寄稿している。中山さんはその時すでにラジオの自作でさまざまな失敗をしながら、5球スーパーを組み立てることのできるレベルになっていた。

ある日、中山さんは同僚と七尾市で寿司を食べるためある寿司店に入った。その店の「カウンター横に何か大きなへんてこな物が所狭しとばかり乗っかっているのに気がつき、途端に寿司を食べるのをそっちのけで話しこんでしまった。時すでに遅く、病は絶頂に達した。翌日より大きな法令集と首っ引きの勉強が始まった。その年の10月どうにかアマチュア無線の従事者ライセンスを取ることができた」と、いきさつを記している。

[養成課程講習会]

七尾市を中心にハムが増え出し、その人たちが新に受川さんの回りに集まりだし、JARLの活動を支えた。JARLの「養成課程講習会」が始まると、熱心に活動を始めた。「養成課程講習会」は、電話級、電信級の受験希望者が増加、当時の郵政省が対応できなくなったために生まれた制度である。

一定時間、電波法、無線技術の講習を受けた後、簡単な試験に受かれば従事者免許が与えられる。昭和41年(1966年)から実施されたこの講習会の講師になるためには「第2級アマチュア無線技術士」以上の資格が必要だった。受川さんはその必要性もあってすぐに2級免許を取得し講師にもなり若いハムを育てていった。

[モービル]

昭和39年(1964年)受川さんはJARL北陸支部の選挙監査長に選ばれる。JARLは役員の選出を選挙で行っているが、その選挙での違反行為を取り締まる役職である。昭和43年まで続けたが、仕事をもってのJARL活動には限界があり、その後はJARLの華々しい活動を降り、JARL会員勧誘などの活動を支えている。

「倉屋」にはハムが集りだし、車を持つ仲間から車に無線機を載せて交信しよう、との話題が出る。すでに東京などでは早くから「モービルハム」という呼び名が生まれるほど盛んになっているという話も聞いていた。「50MHzの周波数を使うが、米軍の放出品やタクシー無線機を改造している、ことも伝わってきた」という。

最初は5、6人の集まりだった。受川さんはライトバンを買い、無線機はタクシー無線機を改造して使った。「仲間とは材料の仕入れの途中などに交信し、店内でいつもスイッチを入れてワッチしていた。休みの日には遠方にドライブに行った」という。昭和40年(1965年)になると、50MHz、144MHzのモービル(車載機)がメーカーから売り出され始めた。

当時の受川さん自宅のシャック

[倉屋商事無線部]

昭和39年(1964年)井上電機製作所(現アイコム)は、50MHz、AMモードのポータブル機FDAM-1を発売する。次いで、同周波数帯のFMモード機FDFM-1を揃えたが、ともにすべてトランジスター回路にしたわが国で初の本格的なオールトランジスタートランシーバーであった。それまで、米軍の放出品やタクシー無線機を改造して使用していたハムは、この市販品に飛びついた。

同社は、その後に車載用の10WブースターFM-10、50MHz、144MHzの10W出力2チャンネルFMモードトランシーバーFDFM-25シリーズを相次いで発売。このような商品が出揃ったことから、車に載せる無線機に悩んでいたハムたちも続々とモービルハムになっていった。受川さんはいち早くFDAM-1やFM-1を使い出した。

仲間は受川さんの無線機を見て、受川さんに取りまとめを依頼し始めた。その都度、受川さんは同社に注文し、何らの口銭も取ることなく受け取っては渡していたが、その姿を見ていた仲間が「申し訳ないので代理店になって、利益を取って欲しい」と言い始めた。受川さんは、現在いわれている「ハムショップ」を手掛けることになり「倉屋商事無線部」を発足する決断をする。昭和40年(1965年)のころである。

[あなたではなく社長に会いたい]

井上電機製作所の無線機中心の販売店になった受川さんは、しばらくして同社の本社に奥さん同伴で社長を訪ねる。まだ同社が最初の本社工場を持った東住吉区矢田町にあったころである。「小さな木造の建物だった。社長に会いたいというと、若い男が井上ですと出てきた」と、受川さんはこの時のことをおもしろそうに話してくれた。

一目見て、受川さんは「あんたでなくて、お父さんをといった」と言う。すると、その若い男は「私が社長です」と答えた。受川さんは「日本で初めてのオールトランジスターの無線機を次々と開発する技術を持っている人はある程度年輩、と思いこんでいたので自分と変らない年齢にびっくりしてしまった」と言う。

その後、受川さんはしばしば井上社長を訪ねることになるが、その時のことは井上社長も鮮明に記憶している。「来られる時はいつも朝早くだった。出社すると建物の前に車が止まっており、受川さんが降りてこられる。」のが常だった。受川さんは前の晩に店を閉めてから夜通し、まだ高速道路のないころの道を400Km近く走ってくるため、着くのは早朝になるのだった。