[JMHC能登の発足]

昭和41年(1966年)に、受川さんは日本赤十字社石川県支部の講習を受けて「救急員」となる。このころ全国のJMHCクラブも車と無線を活用して災害時に赤十字の支援を行う目的で、日赤との接触を始めている。やがて、JMHC能登の会員は増加、JMHC能登クラブ発足時には70名程度に増えた。

北陸のJMHCの組織は「JMHC北陸支部」の傘下に富山クラブ、石川クラブ、福井クラブ、能登クラブが所属し、連携もうまく取れていた。この組織を作り上げたのが富山在住の古田柘太郎さんであることは最初の所で触れている。古田さんは東京の柴田さんに依頼されて、北陸をまとめあげたはずである。

JMHC北陸設立大会。JMHC能登クラブからも出席した

[戦前HF、戦後VU]

初代「JMHC北陸支部」の会長であった古田柘太郎さんについて、簡単に触れておきたい。大正6年(1917年)2月富山県の魚津に生まれ、金沢市の四高時代の昭和11年(1936年)6月に免許を取得し、J2DAとなった。戦後は昭和30年(1955年)に2級を取り、JA9SMとなった。さらに、昭和55年(1980年)に1級となる。この時、古田さんは63歳でモールス符号に挑戦したことになる。

戦後は富山市で印刷会社の第1共同印刷を経営、平成14年6月に86歳でサイレントキーになられた。先に触れた江戸重富さん、古田さんともに、別の連載「北陸のハム達。円間さんとその歴史」に詳しく書いている。古田さんの場合、戦前はHF、戦後はVHF、UHFを楽しんだといえそうだ。戦前の北陸のハムでは江戸さんとともに長寿の方であった。

[JMHC能登の活動]

「JMHC能登クラブ」が昭和42年(1967年)3月5日に発足したいきさつについては、先に触れている。この時「モービルクラブの使命と目標」として、3項目が決められた。①クラブ活動の円満な連絡を使命とします②部員相互の親睦を図ることを目標といたします③勉学と技術の練磨により、日進月歩の無線技術の進歩に遅れないように努力いたします。というものであった。

翌年2月18日に第一回の定期総会が労働会館で開かれて会則が決められ、入会金500円、会費月額100円が決定した。また、年間事業として「北陸支部非常無線訓練参加」「遠乗り会の実施」「JMHCコンテストの開催」「機関誌の発行」などが決まった。その後、同能登クラブは活発な活動を行うが、JARL能登クラブとの共催も多かったことが、他のJMHC組織と異なっていた。

[日赤奉仕団]

日赤との関係は、やがて「石川県無線赤十字奉仕団」の組織となり、受川さんは「昭和45年(1970年)に日赤石川県支部救急法指導員」となり、奉仕団メンバーに救急法を教える資格を得る。これまで「JMHC能登クラブ」がモービルハムとして「日赤と連携して活動したケースはあまりない。もっとも、事故や災害はない方が良いため、それはそれで良かった」と受川さんは言う。

受川さんの記憶にあるのは「昭和40年ころに、七尾市の西南に位置する鳥屋町で交通事故が発生した。たまたま通りかかった奉仕団のメンバーが無線で日赤に連絡するとともに、応急手当をし怪我人を車で搬送することにしたが、連絡を受けたパトカーが先導した」ことである。

日赤無線奉仕団の救急法講習会

[寝る間のない活動]

ここでしばらくアマチュア無線を離れての受川さんの活動をみてみたい。七尾市に開店ほどない昭和38年(1963年)ころに、七尾市の料理学校の講師として家庭の主婦や若い女性を公民館で教え始めた。昭和42年(1967年)には調理師協会(大栄会)の能登支部長となり、この年には「電話級無線通信士」現在の「第4級海上無線通信士」の資格を得た。

翌43年(1968年)には銀座ビル株式会社の専務に就任。銀座ビルは「倉屋」が入居しているビルであり、その出資者の一人として役員に推薦された。昭和47年(1972)「防火管理者資格」を取得、昭和55年(1980年)七尾市防災行政無線設備を請負、設置。さらに、平成2年(1990年)小型船舶免許、無線設備検査員資格を取得した。

以上は受川さんの活動のほんの一環であり、実はスポーツ関係での活動が圧巻といえる。スポーツ関係の役職は昭和40年代後半からであるが、受川さんはまずスキーの勉強からスタートした。JMHC能登クラブとして冬場の山岳救助のためにはスキー技術が必至と判断して、仲間を集める。

[スポーツクラブの要職]

昭和47年(1972年)に「能登シーハイル」の会長に就任。「シーハイル」はドイツ語で「スキー万歳」を意味する。昭和49年(1974年)に日赤の「スキーパトロール」に合格。翌年には「七尾市スキー協会」の会長となり、また、全日本スキー連盟の公認パトロールに合格。

次いで、昭和52年(1977年)全日本スキー連盟の準指導員に、56年(1981年)には同連盟の指導員に合格、さらに翌年には同連盟のB級検定員に合格。このようなスキーの技能が認められた結果、平成4年(1992年)に石川県スキー連盟の常任理事・傷害対策本部副本部長となった。

受川さんは能登地区のスキーの振興を図った。右が受川さん