[JMHC岡山大会]

七尾市の和倉温泉で全国大会が開かれた翌昭和45年(1970年)8月22日、23日、第5回全国大会が岡山市の郊外にある野谷温泉「観月荘」で開催された。参加のハムは約140名。主催は「JMHC岡山」であり、同岡山の会長は武鑓久治(JA4RE)さんであった。当時、武鑓さんは名前を「卓示」と名乗っていた。現「久治」名への改名については説明がややこしいので省くことにしたい。

その武鑓さんは、昨年(2004年)にJARL中国地方本部長に選ばれ、現在は多忙な日々を過ごしている。武鑓さんは昭和15年、姉一人、弟二人の長男として倉敷市に生まれた。父親は「武鑓織布株式会社(現在の株式会社タケヤリ)」を経営していた。同社は明治21年に創業、厚地衣料用の綿帆布、防水シートなどを得意とし、最近では導電性繊維、電磁波シールド繊維なども手掛けている。

武鑓さんが生まれた時にはすでに日中戦争が始まり、対米関係は険悪な状況になっており、米国との戦争が避けられそうもない状況が高まっていた。翌年の12月太平洋戦争に突入し、武鑓さんは5歳まで戦時下の暗い時代を過ごすことになるが、倉敷は空襲の被害もなく「それほど鮮明な記憶はない」と言う。戦後の昭和21年(1946年)に、岡山大学付属小学校に入学。

シャック兼作業室のなかでの武鑓さん

[ラジオ自作時代]

武鑓少年は5年になった時に担任の久松右治(後にJA3RCT)先生から大きな影響を受け、ラジオ受信機に興味をもつ。当時、戦争により禁止されたアマチュア無線は再開されたいなかったが、ラジオブームが始まっていた。戦後しばらくはラジオを聞くことが国民の最大の娯楽であり、争ってラジオ受信機を求めた時代であった。ところが、貧しい国家財政を立て直すために、ラジオ受信機やラジオ受信機に必要な部品には高額な物品税がかけられていた。

このため、電機メーカーが製造する高いラジオ受信機よりも、部品を買い求めて自作する人も多く、市中のラジオ屋さんや戦前、戦中に無線機器に携わった人、知識欲の旺盛な中高生や大学生が、ラジオ受信機を作り、友人、親戚、周辺に販売していた時代でもあった。

[ラジオ少年に]

現在では「家電店」と呼ばれている電気店は「ラジオ屋」と呼ばれ、ラジオを自作して販売して生活の糧にしていた人は「アマチュア」と呼ばれていた。また、器用にラジオ受信機を組みたてる少年たちは「ラジオ少年」と名付けられ、時には「天才少年」といわれた時代であった。

昭和28年(1953年)武鑓少年一家は岡山市に移転する。小学校そして、進学する予定の中学の近くである。久松先生の影響を受けた武鑓少年はいつの間にか「ラジオ少年」になっていった。予定通り岡大付属中学に進学した武鑓少年は「理科クラブ」に入り、友達と真空管を使った「並4」「高1」などのラジオ受信機を組み立てるようになる。同級生に浅野総明(JA4FD)少年がおり、無線に詳しい彼からも大きな刺激を受けた。

中学では「音楽部」にも所属した。実は、武鑓少年はピアノを弾き、楽器の演奏が得意な伯父を見習い8歳ごろからピアノを習っていた。戦時下の楽器演奏がはばかられた時代を過ごしていたが、その反動からか武鑓さんは中学ではジャズピアノに夢中になる。「ちょうど第一期のグレンミラーオーケストラ人気のころで、ラジオとピアノの二足のわらじを履いてました」と、この当時を懐かしむ。

小学校5年生のころの武鑓さん

[伝統高校入学]

武鑓少年の小学校、中学時代にわが国のアマチュア無線は激動の時代を迎えている。昭和26年(1951年)6月に戦後初のアマチュア無線技士国家試験が行われ、翌年7月に30名に予備免許が与えられ、8月に戦後初の日本人ハムの電波が世界に飛んでいった。昭和28年1月にはJARLは全国の各エリアごとの10支部を設立、戦前を上回る体制を作り上げた。

このような経緯を中学生である武鑓さんは切実には考えていなかった。昭和31年(1956年)武鑓さんは岡山市の岡山県立岡山朝日高校に入学する。同校は昨年(2004年)に創立130年を迎えた伝統高である。寛文6年(1666年)に岡山藩士である池田光政が初期的な学館をつくり、同9年(1669年)に当時の西中山下に移し、岡山藩学校としたのが発足の最初である。

明治4年(1871年)に普通学校となって以後、県立の教員養成所や私立学校となったりする変遷を辿りながら、明治9年(1876年)に「岡山県師範学校変則中学科」に改称された。もちろん、その後も学制改革とともに校名も役割も変わるが、創立130年はこの年の「中学」の校名がつけられた時を基点としている。

[ハムに]

高校時代、ピアノはジャズピアノにのめり込んでいたこともあり、ラジオ受信機自作からアマチュア無線の世界に飛びこむような活動はしていなかったが「3年生になると周囲からアマチュア無線の免許を取れ」といわれ、電波法規の勉強を始めた。「尻を叩かれて受験したようなものだった」と振り返る。広島まで出掛けて、現在とは異なり筆記式の試験を受けて、第2級アマチュア無線技士に合格。昭和34年8月のことであった。そして、JA4REとなる。

受信機はハマーランドのスーパープロを買い求めたが、送信機は807真空管を使った当時のスタンダード回路を自作した。3.5MHz、7MHzでの交信を始めたが「交信にはあまり興味がもてず、送受信機の自作の方がおもしろかった」と言う。翌年には大学入試が迫っていた。「別に一所懸命勉強したわけではなかったが、やはり受験が気になって無線に全力投球できなかった」とこの時の状況を語る。

翌年、東京の成城大学経済学部に入学、放送文化部に所属。目黒区の義兄の家に下宿し、自作の送受信機を持ち込む。「秋葉原の電気街に通い部品を集めたり、学校の放送設備の修理などを手掛けたが、楽しいのはジャズピアノの方であった」と、ラジオ少年から、ジャズ青年になったいきさつを話す。

昭和30年代後半に自作した送信機