[大学生活]

武鑓さんが入学した昭和34年(1959年)から翌年にかけて、東京は騒然とした時期であった。日米安全保障条約の改定を巡って反対勢力と政府が対立、なかでも学生を中心とした「全学連=全日本学生自治会総連合」は、激しく機動隊と激闘するなど現在では想像できない状況となった。「60年安保闘争」と呼ばれたこの時期、武鑓さんはジャズ演奏の毎日だった。

岡山と違い、東京には学生が演奏するジャズにも興味をもつ人も多かった。友人と一緒にプロダクションに属し毎晩演奏に出かけた。週に1度はレベルの高い演奏会場に出演した。テレビにも出演したこともある。そのころ下宿の近くに警視庁の官舎があり、タブレットアンテナが張ってあった。「興味をもっていたこともあり、思わずその引き込みの家を訪ねてしまったと」と言う。


アンテナの持ち主は、当時の「CQ ham radio」に紹介されていた「おしどりハム」の三宅(JA1CHC、CHD)夫妻であった。「そこのシャックで3.5MHzを聞いていると懐かしい声が聞こえてきた。岡山でローカルラグチュー(同一地方同士内での会話)をやっている長尾一郎(JA4RG)さんと内田裕之(JA4RJ)さんの声だった」と言う。居ても立っても居られなくなった武鑓さんは奥様のにお願いし、ブレークをかけてもらう。

「ブレークをかけるのは私でも良かったのですが、やはり女性の声の方が良いですからね」と武鑓さん。「その時の岡山の仲間の驚きは今でもはっきりと覚えています」と言う。「おい、1のYLさんからブレークがかかった。みんな黙れ」長尾さんの声だった。奥さんは「皆さんに珍しい声を聞かせます」と言い、武鑓さんがマイクを受け取り「JA4RE/1です」と話すと、「蜂の巣をつついたようなラグチューが岡山で始まった」と、武鑓さんは楽しそうにその時のことを話す。

ジャズとアマチュア無線の生活を続けながら、武鑓さんは「それでも落第は怖かったので、専攻の経済学は懸命に勉強したし、趣味の電子工学のことは東京電通大、音楽のことは東京芸大の友達に教えてもらった。時には図書館に行き、半導体の基礎理論なども真剣に学んだ」と、勉強もおろそかにしなかったらしい。

モービルに夢中となった頃の武鑓さん

[プロへの誘惑]

昭和38年(1963年)卒業の年である。東京に残るか、岡山に戻るか、武鑓さんは悩み通した。岡山では当時、父親の経営する会社が社員数700名になるなど大きく発展していた。「父からは戻って欲しい」と言われていた。このため、そのつもりで「秋葉原に行き、岡山に戻った時に必要となりそうな部品を買い溜めしたりした」こともある。一方、プロダクションからは「東京に残ってジャズのピアニストを続けて欲しい」と要請されていた。

「ジャズ演奏のプロになれということであり、うれしい話だった」と当時の喜びを語っている。ところが、それを断念せざるをえないことが起きる。夜の演奏、アマチュア無線、勉強が重なったせいか体調が悪くなる。医者見てもらうと「すぐに入院せよ」といわれ、目黒の厚生病院に3週間入院。原因はわからず「長い間の無理によるものだろうと診断されたが、無理をせず岡山に帰ろう」と武鑓さんは決断する。

[故郷岡山]

この当時、繊維産業も多忙であった。わが国の「高度経済成長」のなかにあって、父親の経営する会社も順調に発展しており、武鑓さんも多忙だったが、アマチュア無線では家にタワーを建てダイポールアンテナを張りHFに挑戦した。「しかし、交信が好きになれず、相変わらず送受信機を作ったり壊したりした」ハムライフを武鑓さんは送った。

しばらくして、伯父の知り合いで、米軍のジャンクが大好きだった尾崎務(JA4CN)さんとの交流ができた。尾崎さんは米軍が放出している50MHzの車載用トランシーバーを改造して車に載せていた。東京時代、武鑓さんは米軍のトランシーバーを改造、ホイップアンテナを取りつけ、車体の後ろにコールサインを張りつけ得意げに走っている人たちを見ていた。「これだ」と武鑓さんは思った。

JMHC岡山のメンバー。後列中央が尾崎さん、右が武鑓さん

[OMHCの誕生]

早速、米軍のトランシーバーを都合してもらい改造して車に載せるとともに、仲間を集めた。車同士で交信するためにはどうしても多くのハム仲間が必要となる。最初に集ったのが6名だった。グループの名前を岡山モービルハムクラブ、OMHCと名付けた。東京にはJMHC(日本モービルハムクラブ)ができていることを知っていたために、それに習った。仲間はすぐに20名程度に増えていった。

このクラブの最初のリーダーは尾崎さんだった。武鑓さんも仲間のために米軍放出のトランシーバーの改造を手伝った。やがて、タクシー無線機が市中に流れだし米軍トランシーバーからタクシー無線の改造機が主流になっていく。全国共通の現象でもあった。武鑓さんはほどなくしてOMHCの中心的存在となり、会長に就任する。

そのころ、東京のJMHCが全国的な組織作りに取りかかっており、OMHCに対して全国共通の名称をつけて欲しいと要請してきた。その結果「JMHC岡山」の名称に改称、その時期は「昭和40年(1965年)ころだったと思う。OMHCを発足させて半年ほど経ったころと記憶している」と武鑓さんは記憶を呼び起こしている。