[JMHCの活動]

昭和40年(1965年)になると、車載専用ともいえる50MHzトランシーバーがメーカーから売り出され始めた。武鑓さんは「当時の井上電機製作所(現在のアイコム)に仲間と共同で、FDFM-2を25台注文したことがある」ことを記憶している。完成品が市販されたことでモービルハムの仲間は増えていった。

JMHCは昭和41年(1966年)から全国大会を開催する。第1回は愛知県の蒲郡「ふきぬけ」翌年は静岡県の「日本平ホテル」だった。武鑓さんの記憶は「確か第2回から出席したと思う」と定かではない。残されている記録では第1回には「中国の会員」のみの表現、第2回では「岡山1名」と記されており、どうやら武鑓さんらしい。

つづく第3回の京都大会の記録はないが、第4回の和倉大会ではJA4REのコールが明確に記載されている。父親の会社に勤めながらも武鑓さんが「JMHC岡山」の活動に熱心に取り組んでいることがわかる。武鑓さんは「昭和60年(1985年)ころまでは毎年全国大会に参加していたはず」という。昭和60年は静岡で第20回大会が開かれた年である。

[日赤機動救助奉仕隊]

OMHCが発足してしばらくすると、日本赤十字岡山県支部と親しい関係が生まれる。このころ各地でモービルハムのクラブと日赤とが提携し、災害などの非常時に協力する体制ができあがっていた。岡山の場合もどちらともなく結び付きができ、日赤の機材を使用しても良いということになり、毎月定期的な会合が開かれるようになった。

その結果生まれたのが「日赤機動救助奉仕隊」であり、名称を「JMHC岡山」に変更していた武鑓さんらは「会員の中から車の安全走行、救急法を習得し人命救助能力などの適性を考慮して隊員を選んだ」と言う。その後「日赤は救急車の操作、岡山県警は救急車などの非常用車両の走行法の講習をしてくれた」と言う。同「奉仕隊」は後に「奉仕団」に名称を変えている。

JMHC岡山はピーク時には45名の会員に拡大し、行事として遠乗会などを行なったが「むしろ日赤との共同での催しが多かった」と武鑓さんは言う。非常時を想定しての訓練や、マラソン大会での救護隊の編成などである。非常時に役立つのでは、と隊員が自衛隊に体験入隊することもあった。そして「しだいにJMHC岡山もボランティア団体的な色彩を強めていった」らしい。

JMHC岡山のメンバーが多かったJARL岡山県支部は、岡山県と災害時応援協定を結んだ

[繊維機械の自動化]

父親の会社でのサラリーマン生活はどうだったのか。武鑓さんはエレクトロニクス技術を活用しての繊維機械の自動化に取り組んでいた。戦前、戦後を通じて拡大してきた繊維産業であるが、昭和40(1965年)代半ばころには発展途上諸国に追い上げられ、日本の繊維産業は太刀打ちできなくなりつつあった。武鑓さんらは「徹底した自動化しかない」と判断し、自動化に取り組み始めた。

自動化をどう進めるべきか、と考えていた時、自衛隊が使用する大量の軍用布の入札があった。防火・防爆であることが最大の条件であり、武鑓さんの勤めているタケヤリは厚手の合繊分野でも技術力をもっていた。「あの時は倉レと組んだが、コンペでは絶対に勝とうと開発に力を入れた」と言う。その結果、納入契約に成功する。

受注は大変な量であり「計算すると100台の機械を24時間動かして、3年間操業することになる。とにかく量産機械を見つけなければならなくなった」と武鑓さんはあわてて調べてみると、ベルギーに適当な機械があり、武鑓さんらは買い付けに行く。この時、武鑓さんは、ソニー製オールウェーブのTRラジオを持参していた。海外でアマチュアバンドを聞きたかったからであるが、それが思わぬ役に立つ。

[新自動制御回路を開発]

相手の工場で機械の説明を受けるが、時折糸切れが発生する問題があり、その企業でも対策に苦しんでいた。調べてみると、機械式の自動制御回路からの火花が糸に点火し、切断させているが原因のようだった。「TRを使いエレクトロニクス回路にすれば解決できるのではないか」と武鑓さんは判断した。

学生時代に学んでいた半導体回路技術が生かされた。武鑓さんは急いでトランジスターラジオを分解し、トランジスターを取り出しフイリップフロップ構成の回路を作り上げた。「これを組み込んでください」と、回路を渡したが「自信は半分しかなかったが、見事に問題解決につながり私自身もびっくりした。ただし、当然だという顔をして見せた」と、その時のことを振り返っている。

旧日本軍、米軍の通信機がぎっしり詰まった武鑓さんのシャック

[転身]

機械100台を買い付け、その後の3年間で防衛庁に納入し義務を果たしている。昭和44年(1969年)のことであるが、これを契機に武鑓さんは繊維機械の自動化技術開発に本腰をいれ、いくつかの特許を取得している。防衛庁への納入が終了した後、武鑓さんは就任していた「タケヤリ」の取締役を退き、退社する。「弟2人が仕事をするようになったため、役職を譲った」と武鑓さんはいう。その後、タイヤなどの自動車用部品販売の仕事に携わる。ある会社と共同出資して設立した会社であり、常務として営業部門の総責任者として活躍した。

武鑓さんはモービルハムの活動を通して、車の知識をかなりもっていたのと、当時の日本が一般庶民でも車を所有できるような状態になっており、自動車関連需要が高まっていたからである。「販売品はタイヤが大部分を占めていたが、景気の良い時代であり売り出しキャンペーンでは、海外旅行招待なども行った」と言う。