キャンペーンの旅行招待では、フィリピン、韓国、インドネシアなどによく行ったらしい。なかでもフィリピンには度々出かけたが、やはり武鑓さんはハムである。現地ではジョージ・フランシスコ(DU1GF)さんやアントニオ・メンドーサ(DU1XKE)さんとの交友ができた。

[日本人だったジョージ]

ジョージ・フランシスコさんは日本のハムにも親しまれたマニラ在住のハムである。日本のハムの中には「日本語の上手なフィリピン人」と思っていた人も多いが、実際は数奇な人生を体験した日本人であった。日本名は「石橋鉚太郎」さんといい、明治末にフィリピンに渡った日本人の両親の間にフィリピンで生まれている。父親は建築業を営んでいたが太平洋戦争勃発とともに夫婦で日本へと引き上げた。

当時、フィリピン大学に在籍中の鉚太郎さんはそのまま残り、卒業後はフィリピンを統治した日本軍の通訳を務めていた。昭和20年、日本軍が敗北すると鉚太郎さんはフィリピン政府から「日本軍への協力」の罪での追求を恐れて身を隠す。福岡県久留米市に住んでいた母親の千代さんの所には、昭和24年に鉚太郎さん戦死の連絡が届く。

戦後しばらくは日本とフィリピンとの関係は改善されないまま、母子との連絡は途絶えたままであった。その後、日比関係が改善されたのを見計らって鉚太郎さんはマニラに戻り時計商を営み始めた。フィリピン人と結婚し3人の子供をもうけ、フィリピン名を名乗り続けていた。

[千代さんとの再会]

アマチュア無線の免許を取得したものの、鉚太郎さんは万一のことを考えフィリピン人ハムとして交信していた。ところが昭和30年(1955年)1月2日、当時久留米市に住んでいた井波眞(JA&AV)さんとの交信中、久留米市と聞いた鉚太郎さんは「母が国道筋にいるストーン・ブリッジ・チヨだ」と日本語でしゃべり出した。井波さんは「石橋チヨさんを探している」と察して、市役所などを回り調べ上げた。

その年の5月初旬、再び鉚太郎さんと交信ができた機会に、千代さんを自宅に呼び寄せて15年ぶりの会話を実現させた。その後、昭和35年(1960年)には来日した鉚太郎さんは19年ぶりに母親と対面している。井波さんにとっても長いアマチュア無線人生の中でも「思い出に残っていること」と言う。残念なことに鉚太郎さんは平成12年(2000年)に亡くなっている。以上のことについては、別の連載「九州のハム達。井波さんとその歴史」に詳しく書かれている。

[ミュージシャン武鑓]

一時はプロのミュージシャンにならないかとまで要請を受けた武鑓さんであるが、故郷に戻ってもさまざまな機会を捕らえて、ピアノは離さなかった。現在は倉敷消防音楽隊指導者、ザ・スウィング・ビーツオーケストラのリーダーでもある。スウィング・ビーツオーケストラは昭和40年(1965年)に同好者10名で結成された。

岡山県庁吹奏楽団を指揮する武鑓さん

その後メンバーも増え、保育園から小中、高校、大学、老人ホーム、身障者施設、そして刑務所などに出かけて、音楽を聴く喜びを提供している。中でも年1回の刑務所を訪問しての演奏はほどなく30回にもなる。

演奏はあらゆるジャンルにわたっているが、同時に作曲、編曲も手掛けており、岡山市制100周年を記念し「岡山の演歌を100曲作ろうと決め現在も続行中です」と言う。武鑓さんは「音楽は心の栄養だ」をモットーにしており「多くの所で多くの方がそれぞれの人生を送っておられる。その方たちに音楽で何ができるかを課題としてこれからも演奏を続けることが私の役目」と強調している。

「音楽は心の栄養だ!」と訴えた武鑓さんのパンフレット

[アマチュア無線発展のために]

武鑓さんはJARL岡山支部長を経て、平成16年(2004年)に中国地方本部長に就任した。アマチュア無線は相変わらず交信よりも、リグの手直しが趣味。現在でも、古い日本軍や米軍の通信機を見つけてきては可動品にすることに楽しみを見つけている。モービルではジープの後部に手直しした米軍の通信機をぎっしり積んでおり、非常時にはいつでも出動できる態勢にある。

「減りつづけているハムの数を増やしたい」気持ちは武鑓さんも人一倍強い。その一つとして考えているアイデアがある。要請課程講習会での合格者の多くが、その後通信機に触れる機会もなく、アマチュア無線から離れていっている。「受講者は、ハムになるつもりで講習を受けたはず。そのうちに局免許をと思いつつ時期を失してしまっている」と分析。それが実情ならば「合格者にはその場で、ハンディ機を安い値段で渡せないだろうか」というのが武鑓さんの提案である。「合格の喜びがあるうちに交信の楽しさを知ってしまえば、ハムへの道を進む人が多くなるはず」と言う。

ジープの後部には米軍通信機がぎっしりと積みこまれている