[土木専攻]

モービル無線が高じてVHF、UHF、SHFそしてEHF帯波まで電送実験したハムが北九州市にいる。北九州市門司区に住んでいる小野真佐彦(JA6LG)さんである。小野さんはその実験のために市内の風師山の山頂部の土地を借り、アンテナを林立した方として全国に知られている。10GHz帯までの動画電送に成功し、24GHz帯まで挑戦しようとした。

最近の小野真佐彦さん

県単位で構成されることの多かったJMHC組織であるが、福岡県では県単位のJMHC組織のほかに、JMHC北九州、JMHC久留米が生まれた。そのJMHC北九州の中心的存在の一人が小野さんであった。小野さんは大正15年(1926年)に門司に生まれ、昭和7年(1932年)に門司小学校に入学、その後丸山松本高等小学校、九州工学校に進学する。

小学校時代は鉱石ラジオを組み立て、高等小学校では真空管を集めたりしたが「ラジオ少年」になるほど夢中になったわけではなかった。このため、九州工学校に設置されていた土木科、電気科のうち土木科を選んでいる。趣味ではラジオよりもオーディオに興味をもち、アンプなどを組みたてる少年であった。

九州工学校は、昭和11年(1936年)に個人学校として設立されたが、昭和19年(1943年)に「財団法人・九州工学校」となり、戦後の昭和23年(1948年)に「九州高等工科学校」に、さらに現在は「真颯館高校」に改称され、同校が基盤の一つとなって昭和42年(1967年)に「西日本工業大学」が開学されている。

[発展し続けた門司]

昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦。在学中の小野さんの生活には取り立てて変化もなく、昭和18年(1943年)に卒業。当時は門司市であった市役所の土木課勤務となる。門司市について触れると、当時の朝鮮や清国に近い港湾として、また、近隣から掘り出された石炭の積み出し港として明治なかころから門司港は活況をみせ始めていた。

このような港湾施設の発展とともに、明治27年(1894年)に周辺の村を統合して門司町となり、明治32年(1899年)には門司市に昇格。日清戦争、日露戦争時は大陸への兵員、物資の輸送基地となったが、その後、昭和12年(1937年)に始まった「日中戦争」後は補給基地としての役割を強めていった。

昭和20年。門司市役所勤務当時の小野さん

[門司と軍馬]

中国大陸へ向けて、兵員、糧食などが門司港から輸送されたが、同時に大量の軍馬もこの港を経由して海を渡った。このため、現在でも「軍馬の水のみ場」「軍馬通り」「軍馬塚」「軍馬の碑」などが残っている。「軍歌」の傑作の一つである「愛馬行進曲」も実はこの地で生まれている。

大陸への供給基地である軍港だけに、日本の敗戦色が濃くなり日本の防空体制が弱まるにともない、米軍の攻撃目標の一つとなった。米軍のねらいは2つあった。1つは軍港としての機能を停止させるため機雷を投下して、港を封鎖することであった。太平洋戦争中、日本海側に投下された機雷の半分近くが門司港周辺だったといわれている。

もう1つは陸上の軍施設の破壊をねらっての爆撃だった。残されている資料によると、門司は昭和19年(1944年)6月から翌年の7月までの間に9回の爆撃にあっている。爆撃は港周辺へ集中したこともあり、死傷者は約330名にとどまった。このころには日本の主要都市のほとんどが米軍の爆撃にさらされていた。また、長崎市を壊滅させた原子爆弾は当初は隣接の小倉市に落される計画であったが、小倉市の天候が悪かったために第2候補地の長崎に落された、ということが戦後わかった。

[アマチュア無線との出会い]

召集されることなく小野さんは市役所勤務を続けていたが、ある日仕事を終えて帰宅してびっくりする。「家が丸焼けになっていた。その日空襲があったのは知っていたが、いつものような港の近くが爆撃されただけと思い、またそう聞いていたのでその光景が信じられなかった」と、当時を語る。

小野さんの自宅があった扇町は市役所からわずか2Kmほど。「飛び火で焼けたと知らされた」と言う。被災を受けた小野さん一家はばらばらになり、太平洋戦争終戦後に大里柳町へと移転した。小野さんは引き続きオーディオ機器の自作が趣味であった。戦後しばらくの間は日本人の間では「映画鑑賞」「レコード鑑賞」が2大趣味であった。技術に詳しいマニアは真空管を使いアンプを自作、よりハイ・ファイ(高忠実)再生に熱中した。

小野さんがレコードをしばしば買っていたのが門司港の近くにあった「ニッチク商会」だった。オーディオ専門店でもあった「ニッチク商会」ではレコードプレーヤーや電気蓄音機、オーディオアンプなども販売しており、店主とも親しくなった。ある時、店主の弟の田中郊三(後にJA6FP)さんから「アマチュア無線というものがあり、なかなかおもしろい」と教えられる。

[ハムに]

田中さんにアマチュア無線というものがあることを教えられたのは「九州大水害があったすぐ後だったと思う」と小野さんは記憶を呼び起こしている。昭和27年(1952年)に戦後のアマチュア無線が再開されたあと、九州大水害で福岡県や熊本県のハム達が非常通信で活躍、全国にアマチュア無線の有用性を大々的に知らせたため、アマチュア無線熱は高まっていた。

昭和29年(1954年)小野さんは熊本まで出かけて第2級アマチュア無線技士の試験を受けて合格する。「受験用のテキストなどがなく、アマチュア無線の雑誌や技術の本を丸暗記した」と言う。田中さんは一足早く合格しており「技術の上でのわからないこと、受験のための注意点などいろいろと教えてもらった」と言う。