[144MHzに挑戦]

戦後のアマチュア無線再開時、ほとんどのハムは3.5MHz、7MHzで交信しため、許可されたのはこの周波数だけと思われがちであるが、実際には10GHzまでの2個別周波数、9周波数帯が使用可能であった。しかし、多くのハムは3.5MHz、7MHzの送信機が作りやすかったため、この2つの周波数に集中した。

小野さんは3.5,7,14,21MHzのHF帯波に加えて、50MHz、144MHzのVHF帯波の免許を取った。「アマチュア無線関連の雑誌を見ていると、皆HFに熱中している。そのため、いつも混み合っており交信が容易にできなかった。また、私は交信のおもしろさよりも新しいものに挑戦したかったため、50MHzや144MHzの送信機づくりに興味をもった」と言う。

局免許を申請し、設備の落成検査を受けた時「やって来た電波監理局の係官は、144MHzの測定器を持っておらず、測定方法がないと言う。そこで、コイルを切り替えて測定する方法を逆に教えてパスできた」という思い出がある。50MHz帯はすでに戦前から一部のハムが利用していたが、144MHzは軍用にしか使われていなかった。

[モービル無線機]

昭和30年(1955年)代前半には、高価なため一般家庭では所有することのできない車をもつことが飛び切りのステータスであった。その車にアマチュア無線機を載せる動きがぼつぼつ始まりつつあった。最初のころは50MHz機の自作ができないハムはHF機を乗せた。その後は米軍が放出した軍用車載機を改造して使うのが一般的となった。

小野さんは当初、単車に自作の50MHz機を載せて走り回った。次いで昭和33年(1958年)には「スバル360」を購入し、50MHz機を取り付けた。「その当時、4輪車は珍しく役所でも最初だった。代金は3年分の給料に等しかった」と言う。無線機をダッシュボードに取り付けられるサイズにするためにシャーシを加工するなど「コンパクトにするのに苦労した」らしい。

小野さんは車に50MHz機を積んでドライブを楽しんだ

小野さんはモービルハムとなり、やがて「JMHC北九州」をつくり上げる。各地で本格的にモービル通信が始まったのはこのころであり、東京、大阪地区でモービルハムが集り組織化されだしたころである。九州にあって小野さんのモービル交信が早かったため、「平地を走っている時の呼出しには応答してもらえる局はなかった」と言う。

そのため、山の上に出かけて交信をしていたが、そのうちに徐々に交信相手も増え始めた。とくに、米軍の払い下げのRT-70、66、67、68などの通信機が手に入りやすくなると、それを改造して車に積んだ仲間が増え始めた。残念なことに仕事場である市役所にはハムは小野さん一人だけであり、小野さんが孤軍奮闘しながら周辺地域でVHF帯通信を切り開いてきたといえる。

[JMHC北九州]

モービルハムが増え始めるのにともない、仲間を集めての組織づくりの話しがで始めた。当然その中心は小野さんとなった。当初、集ったのは15人程度だった。しばらくすると、JMHCの全国組織づくりを推進している東京の柴田俊生(JA1OS)さんが小野さんを訪ねて来て、正式に組織の結成を依頼した。「昭和40年(1965年)ころのことだったと思う」と小野さんは言う。

柴田さんは、戦前のハムであった石川源光(JA1YF)さん、村井洪(JA1AC)さんの3人で、昭和34年(1959年)にMHC(モービルハムクラブ)を結成、この組織はやがてJMHC東京へと発展し、その過程で東京の組織運営は山田豊雄(JA1DWI)さん、横瀬薫(JA1AT)さんらが中心になっていく。

一方、柴田さんは全国的な組織づくりに力を入れていた。昭和40年(1965年)前後に柴田さんは全国各地にできあがりつつあったモービルハムグループに呼びかけ、全国組織立ち上げに協力を求めた。その結果、昭和41年(1966年)に第一回の全国大会が愛知県蒲郡で開かれ、各地のクラブの統一名称採用、毎年の全国大会の開催などが決められた。このことについては、この連載の「JMHC東京」の時に触れている。

[独自の運営方法]

小野さんは、組織名を要請に応じて「JMHC北九州」とした。福岡県では「JMHC福岡」ができたが合流しなかった。同じ県下では久留米が「JMHC久留米」を結成し、福岡県に3つの組織ができあがった。小野さんは「明治以前から北九州、福岡、久留米の3地域は領地、文化の相違などから“しっくり”いっていなかった」と分析する。

事実、人口100万人を超える「政令指定都市」が一県に2都市もあるのは福岡県だけであり、北九州市はそれなりのプライドをもっていた。一方、久留米市も福岡市との対抗心があった。このため、福岡県で最初に誕生した民間テレビ局は当初、久留米市に置かれたいきさつもあった。

「JMHC北九州」ができたころの仲間と

[小野さん会長に]

できあがった「JMHC北九州」は、会員数がピーク時には50名程度となった。しかし、他地区が、会費制を取り入れ、年度行事計画などを決めての運用を行ったのに対し、自由な組織としたのが特徴であった。小野さんは「車に無線を載せたのが古いからという理由で、会長に祭り上げられました」と言う。

JMHC北九州は会費も集めなかったし、また、会員の義務も多くなかった。「私の主義から会費を取らずに必要な時に適当な額を徴収することにしました」というのが理由である。その後、小野さんはJARL北九州支部の監査指導員から同九州本部の監査長、評議員となり、多忙となったことからJMHC北九州の会長を永久勝(JA6QA)さんに譲ることになる。