JMHC北九州も全国各地のJMHC組織と同様、日本赤十字社との連携を始めた。先にも触れているが、九州大水害時にアマチュア無線の果たした役割は大きく、行政はもちろん人命救助を目的とする日本赤十字社は、無線という情報手段と車という移動力をもつモービルハムの組織を重視、結束を強めていた。

[政令指定都市]

日赤とともに、災害時の非常通信や平時での人命救助支援は熱心にやった。小野さんの勤務していた門司市役所は、昭和38年(1963年)に門司区役所となる。門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市が合併、北九州市が誕生したためであり、同時に人口が100万人を超えたことから「政令指定都市」となり、区制が採用された。

実は、この合併は昭和9年ころから検討されていたが、太平洋戦争のために断ち切れとなっていた。38年の合併に際し門司市は下関市とも合併すべし、と主張したが他の市から賛同を得られなかった。門司市と下関市との間には昭和33年(1958年)に「関門海底国道トンネル」が開通しており、門司市にとっては下関市は隣接市の感覚であったが、他の市にしてみれば、他県の市との合併は考えられなかったからであろう。

[災害時専用室]

JMHC北九州の組織とJARL北九州支部の組織は渾然一体の形で活動を続けた。幸いなことにJARL北九州支部の堤喜久雄(JA6AZQ)支部長ら役員の多くが市の職員であり、市側と災害時の支援協定が結ばれた。その後、後に郵政大臣となった自見庄三郎衆議院議員の応援もあって、市役所の屋上に400MHzと1200MHzのアンテナを設置、14階の一部屋を災害時や非常通信訓練時に、市職員クラブが使用できるようになった。

自見議員は九州大学医学部を卒業後、米国・ハーバード大学の主任研究員、九州大学医学部講師を務めた後、昭和58年(1983年)に衆議院初当選。「医者として命を救うよりも政治の世界から多くの人を救いたい」と、政界への転身を説明している。政務調査会通信部会長、逓信委員会長、橋本内閣での郵政大臣など、通信行政に詳しいが、ハムではない。

この時のいきさつについて小野さんは「市役所本庁舎屋上に職員クラブのアンテナを設置することが長年の願望だった。しかし、引込み線の配線、既設の消防局のアンテナへの干渉を理由に許可されなかった」と言う。そこで、小野さんらは自見議員の地元第1秘書がJARL北九州支部の幹部役員でもあることを活用した。

話を聞いた自見議員は「災害時の非常通信は極めて重要な任務である」と、市議会を動かして実現してくれた。職員にハムが多いことも幸いした。「アンテナの設置、災害時の部屋の提供、同軸ケーブルの引き込みなど予想以上のことをしていただいた」という。第1回のテストではハイディ機からの送受信を行い、無事成功している。

モービルハム仲間も増加、モービル機の伝播実験なども行われた

[拡大するJMHC北九州]

日本経済の「高度成長」により、乗用車の普及が急速に進み、同時にアマチュア無線の免許保持者も増加、モービルハムも増え始めた。車載用の無線機はそれまでの米軍車載機や、タクシー無線機の改造から、40年代になると専用品の市販が始まった。しばらくすると、井上電機製作所(現アイコム)の井上徳造社長が小野さんを訪ねてきたことがある。

井上社長はオールトランジスター式のモービル機を開発して、販売を始めたばかりであり、製品のテストと、モービルハムからの製品に対する要望を聞くために、時間をつくって車を走らせていた。小野さんは「井上社長も当時の懐かしいハム仲間でした。モービル機を買うために大阪を訪ねたこともあります」と、約40年前に思いを馳せている。

[SSTV通信]

「災害時には画像も電送できたら」という要望が高まり、JMHC北九州はSSTV(スロースキャンテレビジョン)に挑戦する。SSTVは昭和48年(1973年)の4月に免許が許可され、申請していたハムが一斉に電送実験を始めるとともに、新に申請するハムが相次いだ。

小野さんらは1200MHz帯で取組み、試行錯誤を重ねた結果「車の中から市役所の災害対策室に伝送することが可能となった」と言う。その後、JMHC長崎、大分、熊本、鹿児島との間にSSTV網を作り上げ、もち回りで定期的に電送テストを行っている。「被害地の被害状況が画像で送られてくることによって、的確な対策が打てるようになった」と、小野さんはその効果を語っている。

[風師山山頂]

車の中からでは50MHz、144MHzの交信には限界があるため、小野さんは山に登って交信したことは先に触れた。昭和35年(1960年)である。選んだのは門司港の南にある風師山(かざし山)で、標高は362m。北九州国定公園の中にあり、関門海峡はもちろん360度の眺望が開けた山として知られている。このため、気軽に登れる山として登山者も多く「九州100名山」にも選ばれている。

ロケーションとしては絶好の場所であることを知った小野さんは、その山頂部約3300平米を地主から借り受けた。かつて米軍が航空管制所として使用していた跡地であった。朝鮮戦争当時、米軍は山頂部を接収し、日本から航空機の航空管制を行っていた。韓国と日本の間は「一衣帯水」といわれるほど近い。「ハンディ機でQSO出来るほどである」と小野さんは言う。

風師山につくりあげた局舎

風師山に建設されたアンテナ群