朝鮮戦争当時、米軍はこの日韓の距離の近さに目を付けて山頂部を接収し日本から航空機の航空管制を行っていた。「米軍が使用していたのはTRC-1の通信機と3エレメントのアンテナ程度でした。接収した地形の関係から門司側から頂上までの通行が出来ないため、迂回路を当時の土木課がつくりました」と、小野さんは記憶している。

[風師山の実験]

風師山山頂からの眺望の良さはさきに触れたが、東約30Kmに宇部市、100Kmで祝島、南は約50Kmに大分県の国東半島、両子山が見える。「さすがに円い地球の関係から四国は見えません」と小野さん。昭和30年代はVHF、UHFでの交信距離競争の時代であり、昭和35年(1960年)当時「九州では50MHzが実際の運用ではもっとも高い周波数だった」と小野さんは言う。

Eスポ状態では北九州から日本全国との交信が出来たが、四国のJA5とはバックスキャッター(後方散乱)以外なかなか交信が不可能だった。「まずJA5との交信を目指して風師山に目を付けた」と風師山選択の理由を語っている。本格的な拠点とすることを考えて、とりあえず約10平米(3坪)の無線室も設けた。

「今だから言えますが」と前置きして小野さんは「区役所の土木課勤務を利用して電気、電話を敷設、土地の整備をした」というが、もちろんそれらの工事費はすべて、小野さんや仲間の負担である。出来あがった場所は周辺のハムに大好評であり、休日になるとたくさんのハムが集り憩いの場所になったという。

風師山の局舎(中央奥)と倉庫(左)

風師山で行われた24GHz画像電送実験

[日本記録続出]

風師山での運用を開始した小野さんは、予想以上の電波の飛びの良さに驚く。「J5との交信も簡単に出来、交信範囲が次々と広がっていった」と、当時を語る。このため、50MHz、144MHz帯の日本記録を多数つくることになるが、同時に周波数を上げての実験に取り掛かる。「周囲からは馬鹿の高上がりといわれ続けました」と苦笑する。

実験に集って来た仲間はJMHC北九州のメンバーを中心に徐々に増えて20名程度になる。「車が普及し車載用無線機が市販され、モービルハムが増えだすと古くからの仲間はモービル通信に飽きて、新しい分野への挑戦を求めていた。山頂には2.3m径のパラボラアンテナ、回転装置、微動装置を仲間で設備した。

[アマチュア無線は癒しでもあった]

小野さんの勤務はそれなりに多忙でもあった。区役所の土木課の仕事は昼夜がない場合が多い。土砂崩れ、出水などが発生すると夜中でもたたき起こされ、修復工事の業者に連絡を取り、現場に行かなければならない。「事故周辺の住民と工事業者との調整など、神経も使った。それだけに風師山での実験はストレスの解消となり“癒し”の役割をになってくれた」と言う。

昭和59年(1984年)小野さんは定年まで1年を残して退職したが、それまでの知識が生かされ北九州市小倉北区に本社をもつ「西日本測研社」に勤務した。同社は基準点や地形の測量を公的に行うとともに、建設業も手掛けている企業であり、小野さんは約10年間勤めあげる。この「第二次就職」ともいうべき職場でも無線通信が必要なため、趣味が生かされたという。

すべての仕事から解放された小野さんは68歳になっていたが、風師山のグループとともにUHF波帯に挑戦する意欲はますます高まっていた。10GHz波帯での九州各地や本州の一部との画像通信も順次成功しつつあった。そこで、小野さんはJMHC北九州、JARL北九州、JARL門司区役所職員クラブなどの仲間と「マイクロウェーブ北九州」を立ち上げた。

[志半ばで]

全国でもハムの何人かがグループを結成し、マイクロ波帯の交信に挑戦しだしており、交信実験は軌道に乗り始めた。小野さんらは風師山に新に30平米の局舎を建設するとともに倉庫を作り上げた。早くから風師山に通信基地を設けた「風師山グループ」は全国から注目されていたが、発足した「マイクロウェーブ北九州」も活発に動き出した。小野さんはマイクロウェーブの送受信のための付属機器や、関連機器を自作、その製作講習も積極的に開き、後輩の指導にも当たった。

ところが、残念なことが小野さんに起こった。脳梗塞である。幸い、異常に気がつき手当が早かったことから後遺症も少なくてすんだが、仲間と一緒に山に登り電波を出すことは控えている。「迷惑をかけては・・・」という思いがあるからであろう。その後、風師山から韓国との間で10GHzでの電送実験をしようとの計画が生まれ、韓国側も熱心に準備をしてくれた。小野さんは「見事に成功しました」と報告を聞く。

さらに「マイクロウェーブ北九州」はその後24GHzでの電送実験、長期的には48GHz、75GHzに取り組もうとの夢をもって取り組んでいる。小野さんは今、ヘルパーの介護で外出も可能であるが、通常は無線機、パソコン、ビデオ機器、オーディオ機器に囲まれた部屋で、マイクロウェーブ通信の現状をパソコンでつぶさに見守っている生活を送っている。

約50年間のアマチュア無線生活を振り返り「交友関係が広がり、自作や交信により知識欲が満たされ、チャレンジ精神が培われた。これに代る人生はなかったと思う」と言う。全国的に有名となった風師山については「借地であるが、後輩が買い取りいつまでもアマチュア無線の基地として使って欲しい」との願いをもつ。

講習で披露した自作のマイクロ波用FM,TV復調基盤