[SMRA発足]

昭和38年(1963年)ころになると、静岡市内でもモービルハムが増え出していた。岡本さんが51MHzでワッチしていると偶然に松平喜広(JA2BGZ)さん、岡部忠典(JA2BHF)さんと交信できた。2人は何人かとグループをつくりモービルを楽しんでいるようであった。その他にも車に無線機を載せて走っているハムもいることがわかってきた。

交信の中でクラブをつくろうとの話しが煮詰まり、翌年の2月10日、13名が集りSMRA(静岡モービル・ラジオ・アマチュア・アソシエーション)を発足させる。岡本さんは会長に選ばれ、さらに4月1日には定款が作成された。理事4名、監事2名を置き、会長は理事の互選により選ばれることを決めている。会費は年400円で、他の地区の組織より安かった。

発足した「SMRA」はすぐに定款を作り上げる

[岡本さんのラジオ少年時代]

会長となった岡本さんは昭和3年(1928年)天竜市に生まれ、公務員であった父親の転勤にともい、興津、清水と移り住み、昭和9年(1934年)小学校入学のころは静岡市だった。現在の市内緑町にあった横内小学校を卒業後、昭和15年(1940年)に県立静岡工業学校に入学。同校は大正7年に設立され、当初から機械電気科をもった5年制の学校であり、戦後の教育改革により、現在の静岡工高校に変っている。

工業学校時代は昭和16年(1941年)12月に始まった太平洋戦争の渦中であった。岡本少年は「そのころは簡単な鉱石ラジオを組み立て、レシーバーと電灯線アンテナでNHK静岡(JOPK)の500W放送を聞いて喜んでいた」と言う。当時の放送局の送信所は岡本少年の自宅から東1Km程度の里山にあり「T型アンテナが良く見えたことを覚えている」と言う。ちなみにこのアンテナは現在、東海大学の管理となっている。

「作り上げたラジオの鉱石検波器の接触点を変えて感度の調整をしたり、学校の理科標本を持ち出し方鉛鉱や黄鉄鉱でも検波ができる大発見をした」などラジオ少年になりつつあった。戦時下のため授業はほとんどなしで「学徒動員」の日々だったらしい。動員された先は大和製作所(現理研)の軍用機弾置部用のアルミ板金へのリベット打ち、蒲原軽金(現日軽金)でのアルミの電解炉での作業だった。

[無線機と対面]

動員先での作業は「苦しい思い出だけが残っているが、その8か月後の動員先である東芝富士工場で無線技術への興味を深め、目を開かせてもらい非常に感謝している」と言う。岡本さんが働くことになった東芝通信機冨士工場は、空襲を避けて川崎にあった川崎工場が昭和18年(1943年)に疎開してきたもので、元製紙工場の跡地であった。

東芝冨士工場は動員された学徒用に「腕章」を作った

「富士工場は33万平米の敷地に三角屋根の建屋の工場で、陸軍の通信機や探照灯、電波警戒器を作る主力工場だった。当時はレーダーという言葉がなく電波警戒器と呼ばれていた」と岡本さんは当時を思い出してくれた。岡本さんらはGR(ゼネラル・ラジオ)社の標準信号発生器、RCA(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)社のオッシロスコープの使い方を教えてもらう。

富士工場第7技術課で作っていた「標準信号発生器」の回路図

「工場の第7技術課には岡修一郎課長が、勤労課には石塚傭三課長がおられ、懇切丁寧にいろいろなことを教えてもらった」と言う。岡さんも、石塚さんも後に電機業界の要人となり、石塚さんは後にパイオニアの社長にまでなった人である。岡本さんらが作ったのは戦車や軍用車に載せる「車輌甲」や携帯用の「5号無線機」と呼ばれるもので、調整していると「当時、聴取が厳禁であったハワイからの日本語向け放送である6MHz帯のVOA(ボイス・オブ・アメリカ)も聞えてきたため、時々聞いていた」と言う。

[アマチュア無線局をもちたい]

夜勤の日になると、電波の理論、短波受信機の作り方も教えてくれた。「学校では勉強する間がなかったが、工場でいろいろと教えてもらえた」といい、この体験から岡本さんはアマチュア無線に興味をもつ。「当時は私設無線局と呼ばれている現在のアマチュア無線があり、いつかは自分も勉強して私設無線をやってみたい」と夢をもったのもこの時である。

また「これが契機になって無線技術を天職として生涯を託すようになった」と振り返っている。太平洋戦争の戦局は昭和19年(1944年)ころから決定的に不利となり、日本が占領した南方の国々も次々と奪還され、サイパン島などから日本本土に向けてB-29爆撃機が飛来し始めた。その最中の昭和20年(1945年)3月、岡本さんは卒業し、島田町にあった第二海軍技術廠島田分室の電波研究部に職を得る。

[マグネトロン研究]

島田は人口3万人の静かな町であり、同分室ができたのは昭和18年(1943年)6月。東海紙料(現東海パルプ)に隣接した広大な敷地に設立された。戦局の立て直しを図るために、マグネトロンを活用した電波兵器を開発するねらいがあった。岡本さんは「日々敗色が濃くなり、本土決戦を現実に感じて、お国のための兵器作りと無線勉強を兼ねて海軍の軍属として入所した」と言う。