[優秀な人材結集]

海軍は優秀な人材をここに集めた。「電波兵器とは大出力マグネトロンにより敵を殺傷するのが目的であった。このため当時の日本の最高頭脳を集めていた。大阪大学の物理関係の教授、海軍の優秀な技師、日本無線の技術者が基礎研究をしていた]ことを岡本さんは記憶している。

所長は水間正一郎さんであった。昭和17年(1942年)に、海軍大臣を特許権者とし特許が認められた「高能率マグネトロン」の発明者である。特許は[秘密特許]に指定されており、その後しばらくは世間に知られることがなかった。「秘密特許」は明治18年(1885年)に制定された制度であり、国家の安全保障上、公開できない特許のことであり、軍事関係の案件が多かった。

その所長の下に集ったのは戦後になってノーベル賞を受賞した朝永振一郎さん、静岡大学の学長であった渡辺寧さんらであり、岡本さんの上司は小田稔さんだった。小田さんは後に東大の宇宙線研究所をつくり文化勲章を受け、東京情報大学学長として平成13年(2001年)に亡くなられた。

[マグネトロン開発]

実験所での岡本さんの仕事はマグネトロン管の管内を真空にするポンプの操作係であった。[昼夜兼行でロータリーポンプやオイル拡散ポンプを使って管球の真空度をあげる役割だった。空気洩れの有無はピラニゲージで測定し、リーク個所を止めることが重要だった]と、その時のことを思い出している。

「1週間もかかって条件が整うと実験を開始するが、大体は途中で駄目になる。マグネトロンの出力周波数はレッヘル線と検波器で測り、電力はビーカーの定量水の温度上昇で計算した。今から思うと大規模な研究、測定であるが幼稚なものだった」と振り返っている。マグネトロンは、その後家庭用の電子レンジに採用され、一時はわが国が最大の生産国となった。戦前からの研究開発の成果があったといわれている。

[JARLを知る]

昭和20年(1945年)8月終戦。戦後、岡本さんはアマチュア無線雑誌「CQ ham radio」でJARLを知る。太平洋戦争によって禁止されていたアマチュア無線再開のために、JARLはすぐに活動を開始し、会員を募り、機関誌を発行し、国会に対して再開のための署名運動を開始した。戦前「将来はハムに」の夢をもった岡本さんは「CQ誌」を熟読し再開要望の署名活動を始めている。

「CQ誌の様式にしたがって署名運動のはがきを同好者に配布し、JARLのアマチュア無線許可推進委員会にまとめて郵送した」と言う。昭和23年(1948年)の夏のころだった。同時にJARLの盟員(会員)募集を知った岡本さんは即座に会費と入会申込書を送った。このころは「CQ誌」の購読者はJARL会員扱いであり、岡本さんは1年分の購読料660円を送った。

戦後すぐにJARLは盟員(会員)募集を始めた

この当時は、正会員は戦前にハムであった人しか認められず、その他は準員だった。「ハムでないメンバーを会員にすることができないため、当然といえば当然」と納得した。その代りに、JARLはSWL制度を始めた。会員であれば申請によってSWL(短波受信者)カードが発行され、岡本さんはJ2-154を受け取った。「その後はアマチュア局の受信には名前とSWLナンバーを併記してレポートを送った」と言う。

JARLはアマチュア無線再開の署名運動を始め、雑誌で呼びかけた

[JARL静岡クラブ]

昭和25年(1950年)になった。アマチュア無線の再開はその気配もなかったが、4月には「電波3法」が国会で成立し、基本的な方向が決まったことから「それほど遠くない時期に再開の可能性がある」との情報が岡本さんにも伝わってきた。岡本さんがJARL静岡クラブの会員募集を「CQ誌」で知ったのはそのころである。設立を進めていたのは大塚芳雄(後にJA2AX)だった。岡本さんはすぐに入会する。

JARL静岡クラブ最初の会員名簿。昭和25年

JARLは、昭和22年(1947年)の春ころから全国に、やがて再開されるであろうアマチュア無線に備えて同好者のクラブ設立を促していた。静岡県では浜松クラブが昭和24年(1949年)に発足していたが、静岡クラブも翌25年(1950年)の3月1日に設立ミーティングが開かれた。「静岡県の中部から伊豆までのハム志望者が静岡市内の県立中央図書館に集った」ことを岡本さんは記憶している。

最初の会員は25名。その後もしばらくはミーティングは同じ会場が使われ、再開に備えての勉強が行われた。最初のミーティングには当時の電気通信省の出先機関の検査部長を招き「アマチュア無線免許の見通しやアンカバー通信を戒める話があった」と岡本さんは記憶している。このころには電波法の制定を前にアマチュア無線の基本的な方向性が決まっており、また、遅い再開に居たたまれなくなった一部のハム志望者が不法電波を流していた。

[第二級無線技術士合格]

岡本さんはこのころ仕事の関係で掛川市の近くにある内田村に住んでいた。仲間に呼びかけて再開要望の署名活動をする一方で「何とかして無線に関係する仕事に就きたいと考える生活を送り、密かに勉強を続けていた」と言う。その成果は昭和28年(1953年)の「第二級無線技術士」の合格につながった。

当時は全国各地で民間ラジオ放送の開局準備が進められており、開局に必要な無線技術士が求められていた。このため、多くの戦前のハムもこの職場に就職した。岡本さんは技術要員を求めていた静岡放送に入社する。待望の職場であった。が仕事は多忙でもあった。同じ年に「第二級アマチュア無線技士」の免許を取得してはいたが、仕事に役立てるため「第一級無線技術士」の勉強を優先させた生活を送り、アマチュア無線の開局は見送った。