[開局]

岡本さんの「2アマ」の受験は昭和28年(1953年)6月であった。その時の問題が岡本さんの手元にある。「電波法規」の第1問は「次の通信のうち、アマチュア局が行なうことができないのはいずれか。1非常通信 2知人の依頼によって、病状を知らせるための通信 3非常通信の訓練のための通信 4電波の規正に関する通信 5遭難通信」であった。ちなみに正解は2である。

昭和28年6月の2アマ「電波法規」の試験問題の一部

仕事優先のためアマチュア無線の開局は免許を更新した後になってしまった。当時は従事者免許は5年ごとの更新が必要であり、岡本さんは「免許更新はアマチュア業務実績がないと出来なかったが、プロ免許による無線局従事者選任が役立った。最初の免許は郵政大臣名でなく電波監理委員会名で、英文併記の格式ある免許証だった」とそのころを振り返っている。

いずれにしても、岡本さんは昭和35年(1960年)に局免許の申請を行い、翌年にJA2BZKの局免許を交付された。この時の申請周波数は3.5、7、28、50、144、出力はそれぞれ10Wだったが、岡本さんは50MHzのVHF帯に興味をもち、やがてモービルハムになっていくことはすでに触れている。

[JMHC静岡に]

昭和39年(1964年)に「SMRA」が発足。その後、送受信機の性能向上やモービルハムの増加にともない50MHzとの交信範囲が徐々に拡大する。昭和40年(1965年)代になると、首都圏のモービルハム達が車を連ねて伊豆・箱根方面にしばしばドライブに訪れるようになる。

JMHC静岡の会員は車を連ねてあちこちに出かけた

「ドライブ中の彼らとの交信が盛んになり、また、神奈川県の50MHz固定局である三ッ橋清(JA1MCQ)さんとも常時QSOが可能となっていった」と言う。岡本さんが三ッ橋さんを記憶しているのは「いつも夜中に出てきてミッドナイトCQと呼んでいたため」だった。全国各地でモービルハムが誕生し、各地でグループ化が進んでいった時期でもある。この全国のクラブをまとめて全国組織を作ろうと努力していた中心ハムが東京の柴田俊生(JA1OS)さんであった。

柴田さんは、石川源光(JA1YF)さん、村井洪(JA1AC)さんの3人でMHC(モービル・ハム・クラブ)を設立し、モービルハムの拡大を図ってきたが、MHCを「JMHC東京」に改めるとともに東京の運営を後身に任せ、柴田さんは全国網の結成に乗り出す。この辺のいきさつは、連載のJMHC東京のところに詳しく書いている。

[全国組織に参加]

昭和41年(1966年)岡本さんらSMRAグループは、柴田さんや早川勲(JA1BLN)さんらと静岡市内の国道1号線で落ち合い会合する。柴田さんらは関西方面のモービルハムグループと合同ミーティングを開くための途中だった。関西では昭和34年(1959年)ころにモービルハムが登場し、昭和37年(19662年)には大阪と東京の交流が始まっていた。

東京のグループが大阪に行き、また、大阪のグループが東京に行ったりしたが、翌38年(1963年)の8月に東京で行われた両地区の会合で「大阪は全国組織に加わらない」と断っている。このため、柴田さんらは再度説得のために大阪に向ったか、京都、兵庫のグループを訪ねたかの途中と思われる。事実、京都で昭和42年(1967年)に「JMHC京都」を立ち上げ、会長になった久貝好男(JA3MZP)さんは「それまで柴田さんがたびたび訪ねて来た」ことを記憶している。

昭和40年(1965年)から42年(1967年)にかけて、柴田さんは猛烈な勢いで全国を駆け回り、組織づくりを訴えた。このため、昭和42年に各地に「JMHC」の名称をつけたグループが生まれた。すでに実質的な全国大会も開かれており、組織づくりはこの年に一段落している。岡本さんらSMRAも柴田さんの意向を取り入れ「昭和41年(1966年)の11月1日に臨時総会を開き、SMRAを発展的に解消し、JMHC静岡に名称を変えて、全国組織に加わった]と岡本さんは言う。

[JMHC静岡の活動]

JMHCの会員は徐々に増え、昭和44年(1969年)には約60名に膨れ上がる。車を連ねての「遠乗り会」や、インピーダンス測定器の製作会などを実施、会報も発行した。そのころは真空管からトランジスターへの移行期でもあり、岡本さんは「50MHzのトランジスター基板を分けてもらい皆で組み立てたりした」という。

全国各地のJMHCと同様に日本赤十字社との関係もできた。日赤は車という移動力と無線という速報力をもったモービルハムの団体を大いに評価し、結びつきを強めていた。地区によっては、買い替えによって不要になった救急車を貸与したり、自家用車に赤色灯を取り付けることを許した所もあった。

静岡の場合にもすでにSMRA時代に日赤との関係ができており、「災害時の支援活動の取り決めなど支障なく進んだ」と岡本さんはそのころを語っている。その後、各地区と同じように災害時の支援のための「日赤無線奉仕団」が生まれ、時々その訓練も行われた。昭和41年(1966年)9月その成果が発揮される災害が発生した。