[梅が島災害]

昭和41年(1966年)9月24日、静岡県御前崎に上陸した台風26号は翌25日にかけて甲信越から東北を通り、大きな被害を与えた。なかでも静岡、山梨の2県下は激しい風雨に見舞われ、死者・行方不明者314名が出る大災害となった。静岡県の安倍川上流の「梅が島温泉」では土砂崩れが発生し、交通が遮断され多数の観光客が旅館に閉じ込められた。

電話線も被害を受けて不通となったため連絡の手段が断たれ、日赤は当時の「SMRA」に協力を求めてきた。この時、被災地に乗り込んだのが伊藤幹雄(JA2CMA)さんであった。現地に向う自衛隊のヘリコプターに7MHzの無線機やバッテリーを抱えた伊藤さんは駿府公園を出発して現地に下り立った。

この時、同行したのは医師、看護婦であり、被災地ではそれぞれが活躍を始めた。伊藤さんによって、それまで全く状況がわからなかった現地の模様がアマチュア無線の電波によって伝えられた。もちろん、各新聞社やテレビ局も必死になって現地入りを試みたが地上からのルートがない。やむなく、日赤静岡支社に入った現地の災害状況をニュースソースとせざるをえなかった。

[どうしてアマチュアが]

静岡市に本社をもつ静岡新聞社は、地元紙の名誉にかけてもこの災害報道は速報したかった。静岡放送に勤務していた岡本さんに藤田榮・静岡新聞編集局長から電話がかかってきた。静岡放送と静岡新聞は系列関係にあり、また、岡本さんがハムであることを知った藤さんからの悔しさに満ちた問い合わせだった。「どうして、アマチュア無線が現地に出掛けて情報を送ってこれるのか」と。

岡本さんはそれまでのいきさつを説明し「日赤からの依頼によって、自衛隊も協力してくれた。マスコミの同乗は許されないだろう。仮に現地に行けても、新聞社のもつ150MHz帯無線機では、途中に標高1300mの真富士山などの障害物があったり距離が30Kmも離れていることから通信が出来るかどうか。」と答えた。

藤田局長は「そんなに役立つものなら新聞社としてアマチュア無線機をもつことが出来ないか」と重ねて聞いてきた。アマチュア無線が許されている条件を説明した岡本さんは「目的が違いますから免許は許可されません」と伝えたが「局長は残念でしかたなさそうだった」と言う。

[JARLでの活動]

岡本さんは戦後のアマチュア無線再開を願って、JARLの署名活動に協力し、また、当時SWLの会員になり、JARL静岡クラブに最初から入会したことはすでに触れたが、その後もJARLの活動には熱心だった。JARLの静岡県の組織の歴史についていうならば、愛知、静岡、三重、岐阜をJARL東海支部として統轄していた時には県連(県連絡事務所)が置かれていた。

次いで、昭和47年(1972年)に地方本部制が敷かれ、東海地方本部に改められたのにともない、静岡支部が発足した。県連所長として松永博(JA2AWA)さん、芹澤一徳(JA2KN)さんが務めた後、支部になってからの支部長には飯野厳(JA2KB)さん、松田憲雄(JA2DOH)さんを経て、昭和53年(1978年)に岡本さんが就任した。

[朝霧コンベンション]

昭和50年(1975年)には静岡管内で大きなイベントが行われた。富士山麓の朝霧高原で4月12、13日に開かれた「全日本ハムベンション」である。この企画は、JA1エリアの発想から生まれたもので、最新の技術を紹介したり、ジャンク市を出店したり、バーゲンセールが行われたりのそれまでに例のない催しであった。

朝霧高原のハムベンションには常陸宮・妃殿下がお見えになった

会場となった朝霧高原は富士宮市に属す標高700m~1000mの広大な高原であり、中には宿泊施設もあるグリーンパークがあることから会場に選ばれた。このハムベンションアは、マチュア無線雑誌社や一部のハムによる企画であったが、JARLも協力することになり、当時の東海地方本部の森一雄(JA2ZP)本部長が実行委員長となった。

地元のJARL静岡県支部も全面的に協力したが、JARLの原昌三会長の尽力によって常陸宮・同妃殿下がご来場されることになったため「驚いたのは静岡県であり、県警であり、一体JARLとはどんな組織かという問い合わせがあった」ことを岡本さんは覚えている。この催しは大盛況となり、森本部長が今でも「あの催しは私のアマチュア無線人生でも思い出に残るものだった」と語っているほどである。

「朝霧ハムベンション」は、翌年9月に第2回が行われ、三笠宮宜仁親王殿下が訪れになり、開催記念式典にもご出席された。この時はJARL創立50周年に当たり、JARLが後援している。昭和52年(1977年)9月にJARLは「第1回アマチュア無線フェスティバル」を東京・晴海の「東京国際貿易センター」で開催したが、そのベースとなったのがこの一連の朝霧高原の催しであった。なお、同フェスティバルは現在の「ハムフェア」となって続けられている。

ハムベンションでは記念局が開設され、活発な運用が続けられた