[朝霧高原とARDF]

朝霧高原はまた、わが国のARDF(アマチュア無線方向探査競技)の発祥の地でもあった。日本には早くから広場に隠された送信機を探し出す「FOXハンティング(狐狩り)」という名の競技があった。一方、海外ではARDFの名で国際規約に基づく競技が始められており、JARLは中国で行われている競技のルールを参考にした独自の規約を決め、「FOXティーリング」と名付けた。

「FOXハンティング」と「オリエンティーリング」との合成語であるが、その第1回全国大会が昭和62年(1887年)11月に日本FOXティーリング協会主催で、朝霧高原で開催された。約260名が参加したこの大会では中国、韓国からの選手が圧倒的な強さを発揮、日本のレベルの低さが問題となった。

平成元年(1889年)からはJARLの主催となり、さらに翌年からは「ARDF全国競技大会」に名称が変っている。平成3年(1991年)10月には再び朝霧高原での開催となった。「朝霧高原はARDFを行う場所としては条件が良いことから選ばれました」という岡本さんは、この時、審判長として運営にかかわっている。

[苦労した地図づくり]

「91年ARDF全国競技大会」開催で問題となったのは競技場とその周辺の地図がなかったことだった。ARDFの実施に当たっては参加者に配布されるのが競技用地図、チェックカード、ゼッケン、受信機識別票などである。とくに、地図は必需品であり当初、地元・富士宮市発行の地図を使おうとしたが、競技区域、立入禁止区域、通行可能・通行困難地、さらには地目など詳細な事柄が不十分なことがわかった。

実地測量をする前に、全体像をつかむ必要があった。岡本さんは静岡放送に依頼、ヘリコプターを飛ばしてもらい航空写真を取った。西尾孝夫(JJ2VZG)さん、矢野喜之(JA2JXL)さんらが熱心に調査、作図して完成した。「地図は防水コーティングされ、しかもマジックインクでの書きこみが可能でなければならないが、間に合わせることができた。数十万円の経費がかかってしまった」と言う。

苦労して作り上げた競技用地図

[揉めたJARL駿府総会]

岡本さんは昭和58年(1983年)度まで6年間支部長を務めた。翌年5月27日、静岡で初めての第26回JARL通常総会(駿府総会)が開かれた。まだ、支部長の任期期間であった岡本さんにとっては最後の行事であり、また「花道を飾る」イベントでもあった。

会場は静岡市民文化会館。開会のセレモニーは素晴らしかった。時刻によって色の変わる富士山の映像の前を、打ち上げが予定されているアマチュア無線衛星の模型が横切り、モールス音が開会を告げる趣向がこらされた。ただし「総会はもめましてね」と岡本さん。「緊急動議の発言者が議長の指示に従わなかったことから、マイクを切った、とか切らなかったとかで問題がおきた」と言う。

[非常通信目的の局開設は不可]

静岡県は心配されている「東海地震」の震源地の中心であり、県も市町村もその対策に熱心に取り組んできた。静岡市は地震などの災害時の非常通信用にアマチュア無線局の設置を計画、予算を計上したことがあった。ところが、それに対して東海電波監理局は「アマチュア無線には非常時の通信は許されているが、最初から非常通信のための開局は認められない」と、許可しなかった。

電波監理局の言い分は「災害時用には防災無線がある」ということであった。岡本さんは「電監の言う通りである。非常通信はアマチュア無線本来からいうと、やむなく一時的に認められるもの。最初から非常通信を目的にした場合は目的外通信であり、認めないのが正しい。このため、前任の松田支部長は設置を取りやめた」という。現在では、情勢も変化し規制も緩和され、市役所勤務のハム達がアマチュア無線クラブをつくり、市の予算で発電機を備えたクラブ局を運営するようになっている。

昭和59年、静岡市で開かれたJARL総会--- アマチュア無線のあゆみより

[無線人生]

その後、岡本さんは平成4年(1992年)同5年(1993年)に評議員を務め、現在(2005年)は選挙裁定会裁定員である。また、富士山五合目に設置されている「富士山レピーター管理団体」の代表者の任にある。「ラジオ少年から無線馬鹿の青春時代、そして職業も放送会社で技術屋としてラジオ、テレビで働いてきた」と、岡本さんは無線とのつながりが深かった半生を振り返っている。

さらに、現在でもJARL以外では「静岡県電波適正利用推進員協議会」の会長となり、不法電波・電波障害防止野活動や、電波が正しく使われるようボランティア活動を行っている。加えて、れっきとした仕事もある。電波通信・放送業界を対象としている隔日刊新聞「電波タイムス」の静岡支局長である。

[無線機のコレクション]

岡本さんの趣味であるコレクションも当然無線機器である。古い送受信機を集め、しかも、送信や受信の出来る稼動動態保存を目指している。もちろん、「動かない機器は自分で直すが、もはや対応する真空管がなくなりつつある。とくに、エリミネーター受信機前の製品は足が扁平のフック状になっており、ソケットに挿しこんでロックさせるものがあるが、それが今は全くない。そういう時代になリました」と寂しげである。

現在までの収集品の中には米軍が艦船上で情報収集用に使用していた大型の受信セットがある。高さ180、幅48cmのラックに入った製品であり、岡本さんがかつて東京の柴田さんから5万円で譲ってもらったものである。「当時5万円は大金でした」と言う。今、岡本さんが探しているのは「80年も昔のラジオ放送初期のころの電池電源の受信機」である。

「電波タイムス」では、昔からの人脈、地脈を生かしての取材を続けているが「多くの知人、友人もリタイアし、確実に時代はデジタルに移行している。遠からず、アナログ人間は消え去るが、それまではお世話になった電波の業界に少しでも役立てばと思っている」と岡本さんは今を語っている。