[JMHC広島発足]

昭和43年(1968年)3月、広島市の日本赤十字社広島県支部に100名を超えるモービルハムが集り、「JMHC広島」が設立された。全国的にみると遅い発足であり、JMHC全国大会を初めて管内で開催したのも昭和54年(1979年)になってからである。しかし、その後は「JMHC広島」の活動は他のJMHC組織にはない活発さが注目されてきた。

広島県内で、51MHzや144MHzでのモービルハムが増加し始めたのは昭和41、2年のころといわれている。すでに、全国各地では都道府県単位、ローカル単位のJMHC組織ができ上がりつつあった時期である。当時は経済の高度成長にともないマイカーもアマチュア無線局も急速に増え続けていた。広島県下でも「モービルハムの増加がやがて混信を招き、車両事故を引き起こしかねない」と危惧するハムが出始めていた。

その中心となったのが山村耕一(JA4CF)前田巧(JA4JK)武田哲(JA4OL)藤川正克(JA4RZ)山根凡夫(JA4BCQ)谷盛夫(JA4FCD)さんらであった。「無線の効率的な運用を図るとともに、車の事故防止対策を考えるために組織化しよう」と県内のモービルハムに呼びかけた。結成された「JMHC」の初代会長には藤川さんが選ばれた。

[藤川さんの幼少時代]

藤川さんは昭和11年(1936)1月に広島県双三郡三良坂(現三次市)に生まれた。昭和17年(1942年)に近くの三良坂国民学校に入学した藤川少年は5、6年生のころ雑誌「動く実験室」で天体、電波など未知の世界に興味をもち、ラジオ放送やラジオ受信機を知った。しかし、すでに日中戦争、太平洋戦争が始まっており「人手が不足していた同地区でも、小学生は学校から帰ると農業の手伝いに追われ、鉱石ラジオすら作るような環境ではなかった」と言う。

JMHC広島の初代会長だった藤川正克さん

4年生までは太平洋戦争下で過ごすが、山間地だっただけに米軍による空襲もなく、昭和20年(1945年)8月の広島市への原子爆弾による被害もなかった。藤川少年の家は代々広い土地を持つ「地主」であり、「小作人」を使う立場であった。昭和15年(1940年)に召集を受けて出征した父親は、昭和22年(1947年)に無事戻った。再び楽しい生活ができるとの思いは、その後の予想外の変化で崩れる。

太平洋戦争の終結とともに日本に進駐してきたGHQ(連合軍総司令部)の指導で行われた「農地改革」により、「小作人制度」は禁止され、藤川少年の家もごく普通の「自作農」となり「生活は決して楽ではなかった」と言う。それでも三良坂中学校に入学したころから、ラジオ受信機を作り始める。「最初、鉱石ラジオをつくってみたが、放送局のある広島市からは40Kmもあり、どうしても受信ができなかった」らしい。

[ラジオ少年]

このため、真空管ラジオに取組み、2年生のころには「受信機のキットや部品を取り寄せて、5級スーパーを作ったり、並4ラジオをスーパーに改造したりした」ほどの力を持つようになっていた。戦争により経済が疲弊し戦後には「食糧不足により2000万人が餓死するのでは」とも推測された時期があった。それを救い、援助したのが米国であったが、そのような時代ではラジオを聞くだけが多くの国民にとって最高の娯楽であった。

このため、周囲に藤川少年の作るラジオは引張りだこであった。戦後もしばらくすると電機メーカーも生産が復興し、ラジオ受信機を作ってはいたが、生産コストもかかり、製品には物品税がかけられていた。このため、このころにはアマチュアと呼ばれる人達が、部品を仕入れてラジオ受信機を組み立てて、知人、友人、親戚縁者や周辺の家々に安く売っていた。

当時の電気店の多くもラジオ受信機を組み立てては販売しており、そのため電気店は「ラジオ屋」と呼ばれていたほどである。藤川少年も中学3年生から進学した塩町高校生のころには、立派なアマチュアになっていた。「数は数えていないが、何百台というラジオ受信機を作ったと思う。それが家計の足しになりました」とそのころを語っている。

[短波を受信]

高校での部活動は放送部で活躍した。オーディオアンプや3バンドラジオ受信機を作り短波放送を聞いた。日本では戦争で禁止されたままアマチュア無線は再開されていなかったが、進駐していた米軍の軍人などが「軍補助局」の名目の下にアマチュア無線局を持ち、電波を出していた。

アマチュア無線雑誌「CQ ham radio」は知らなかったが藤川少年は「無線と実験」「ラジオ科学」を読み、国内の放送局や海外からの放送を聞き、受信レポートを送りベリカードを集めていた。昭和26年(1951年)にはラジオの民間放送が開始され、民間放送局が増えつづけていった。「ベリカード集めは楽しかった」と言う。

ラジオ少年がハムになる道を藤川少年も辿っていた。昭和27年(1952年)に、アマチュア無線が再開され、藤川少年もそれまで興味のなかったアマチュア無線に関心をもつ。それでも「ハムになるのはもっと先のこと。試験を受けるわけにはいかない」と思いつつ、無線工学の勉強をしたり、モールス信号の叩き方を独習したりした。

高校卒業が近づいていた。送信機を作りアンカバー通信を始めた仲間もいた。藤川少年はワイヤレスマイクを作って、欲求を紛らわしたりしていたが「開局の資金もなく、卒業後、働かなければならない立場ではアマチュア無線をあきらめなければならない」と思い受験を断念した。

50MHz無線機を取りつけた藤川さんの車。昭和47年頃