[綿羊の毛剃り]

昭和29年(1954年)藤川さんは高校を卒業して、家の農作業をやる傍ら日本綿羊協会の子会社である日本綿羊株式会社の指導員になる。現在では信じがたいことであるが当時の日本には約100万頭の羊が飼育されており、食糧の肉にしたり、毛を刈りとって衣料にしていた。その後、羊毛の輸入が始まり安価な輸入肉や、羊毛に国産品が勝てず、また、化学繊維が使われだし、急速に日本の綿羊飼育は減り、現在では国内の羊は2万頭程度といわれている。

100万頭の羊の毛刈りは大変な作業らしく、しかもこのころは日本の綿羊事業が転換期を迎えていた。一つは羊毛刈りの手法が替わり、それまでは綿羊を飼育していた農家が、当時「ホームスパン」といわれていた自家刈りをするのが一般的であった。藤川さんが指導員になるころは専用のバリカンが発明され、かなりの技術が必要になったらしい。

「羊を刈るのにはかなりのノウハウが必要でした。身体に傷をつけないためには羊の体位を固定させるコツがあり、また、毛の中に針金などの異物が混じっているとバリカンを駄目にする」と藤川さんは説明してくれた。

[ベテラン指導員]

もう一つの変化は、紡績会社が農家に委託飼育を始めたことである。子羊を供給して飼育を委託、刈り取った羊毛を買い取ったり、刈った羊毛で農家自身が洋服地などに加工するという仕組みであり、このシステムのおかげで、綿羊農家が急速に増加した。毛刈りの時期は3月から6月に集中しているため、農家にとっては「苗代」作りの時期に当たり労働力が不足していた。

綿羊農家は毛刈り仕事を地域の綿羊農協を通じて日本綿羊に依頼、季節労務者派遣を受け入れることになるが、藤川さんは飼育農家やその季節労務者の指導に当たった。「全国を南から北へと移動しながら指導に回ったが、収入は当時の大学卒の初任給の4倍程度だった。それで、無線機の部品代を稼ごうとのねらいがあった」と言う。

また、藤川さんが綿羊飼育の指導員になったのはもう一つの理由があった。実は家でも羊を飼っており、高校時代も学校で飼育の勉強をしていた。羊の飼育、生理に詳しかった。「羊特有の病気である“羊麻痺”にかかると歩けなくなる。"羊麻痺"の予防法を講演したりした」ほどである。藤川さんは約7年間この仕事に携わったが、1、2年で早くもベテラン指導員になってしまったらしい。

[秋葉原で部品購入]

その仕事の関係から、藤川さんは時には東京にも出掛けることがあり、行けば必ず秋葉原に寄り、使えそうな部品を集めた。「回路を考えて必要な部品を買うのではなく、多分必要だと思う部品を集めた。それでも集めた部品の80%は役に立った」と言う。藤川さんは農業にも興味があった。「長男でもあったせいか、高校時代から果物や野菜の栽培に関心をもち、いろいろと試していた」らしい。

農業や綿業関連の仕事を手がけている間に4年が経過、藤川さんが2級アマチュア無線技士の受験したのは昭和33年(1958年)2月であった。その年の8月に開局を申請し送受信機作りに取組み、コールサインJA4RZを受け取る。申請した周波数は3.5、7、7.125MHzの3波長帯、電波形式A3、送信管は当時流行の807、出力は10Wだった。開局検査は11月19日を依頼していた。

[不法電波の嫌疑を受ける]

ところが、思いがけないことがおこる。送受信機を完成し、テスト送信をしていたころ、9月29日付けで中国電波管理局長名の「指定外電波形式通信」を行なったとの警告書が届く。通信したのは9月28日13時25分。通信内容を書いた別紙が同封されていた。送信は免許条件にはないA1。通信内容の概略は「初めてですね。今後ともよろしく。あなたの信号は強く届いています。こちらはバックキーを使っているが、どうですか。その他、質問あればどうぞJA4RZ」というようなものであった。交信相手はJA3AJHだった。

中国電監から送られてきた「規正警告書」

警告書に添付されてきた「運用監査記録用紙」

身に覚えのない藤川さんであるが「疑いを受けた時にはアリバイが必要ということを聞いていたが、農家での仕事であり出掛けていたわけでもなく、証明ができない」まま、局設備の検査の日を迎えた。当然、検査係官からアンカバーのことを質されたが「バックキーはおろか電鍵(キー)を持っていないことを強く理解してもらった」ことがあった。

この時のJA3AJHのコールサインを藤川さんは長い間忘れていた。その話をするために藤川さんは警告書の別紙を探し出し目を通していたが、小さく「あれっ」と叫んだ。JA3AJHさんは大阪・吹田市の松本壮一郎さんで「今は非常に親しくしている方なんです。不思議ですね」と言う。結局、藤川さんの名を語ったアンカバーハムはわからなかった。

藤川さんのアマチュア無線に対する基本的な考え方は「時間があれば波を出して話をする。アワードをもらったり、コンテストに参加するのはやりたくない」というものであった。交信をはじめてわかったことは、すぐ近くにハムがいることだった。自転車で行ける距離であった。「早くから知っていたら電波についての基礎知識や、アマチュア無線について一人で苦労せずにいろいろと教えていただけたのに」と悔やんだと言う。JARLにはすぐに加盟し、ほどなくして「永久会員」の手続きを取った。

[低周波治療器]

昭和36年(1961年)藤川さんは「ミナト医科学株式会社」に就職し、広島営業所に勤務することになる。同社は昭和32年(1957年)に湊謙正さんが設立した医療機器の製造会社であり、先端的な技術をもっていた。藤川さんは湊社長をある雑誌を通して知っていた。その雑誌に、低周波治療器の技術を発表していたからである。