低周波治療器の話を続ける。低周波治療器は数Hzから1200Hz程度までのパルス信号を発生させるもので、現在は血液の流れを促進し肩こりなどを直す医療機器として、小型の家庭用が商品化されている。藤川さんが興味をもったこのころは脳梗塞などの後遺症などで麻痺した筋肉を回復させる治療器として注目された。

事実、この治療器を使い麻痺を治した例が報告されており、脚光を浴びていた。藤川さんは電波に興味をもっていただけに、自身でも低周波を発生させる装置を何度も作ったがうまくできなかった。「アマチュア無線での高周波とも異なり、オーディオアンプの回路とも違い、当時の私の知識がなかったことが後にわかった」と言う。

[就職]

ある日、新聞を見ていた父親が「ミナト医科学が社員を募集しているぞ」と教えてくれた。長男である藤川さんは農業を継ぐつもりでさまざまな農業経営の夢をもっていた。しかし「父親の計画とは折り合わず、意見が対立することが多くなっていた。ちょうどそのころ3男が家を引き継いでも良いと言い出したこともあり、就職を決めた」と、当時を語っている。

広島市で入社試験を受けて合格した藤川さんは広島営業所勤務となる。広島で新しい生活を始めた藤川さんに上司が「お前、アマチュア無線をやっているそうだが、徳さんを知っているか」と聞かれた。藤川さんは「知りません」と答えたが、実は現在の「アイコム株式会社」の井上徳造(JA3FA)社長は若い時にミナト医科学で仕事をしていたことがあり、当時から「徳さん」と呼ばれ親しまれていた。それを知った藤川さんは「不思議な縁だった」と思っている。

[50MHzに興味]

広島でのサラリーマン生活に変ると、時間に余裕ができアマチュア無線に費やす時間が取れるようになるとともに、ハム仲間との交流も広がった。昭和40年(1965年)ころになると、車に無線機を積んで走っている車を見かけるようになる。藤川さんも車を使っての営業活動を始めており「車に無線機を積んでおくと便利ではないか」と思うようになる。

急いで50MHzの免許申請を行い、仲間と米軍の車載機やタクシー無線機の払い下げ品を買い求めて改造してモービルハムとなる。「常時交信する仲間は最初5、6人だったように思う。このころは真空管式のためバッテリーの消耗が激しく、うっかりエンジンを止めてしまうと、無線機を使うと時になって使えないということがしばしばおこった」と、藤川さんは当時を思い出している。

[JMHC結成]

JMHC広島の結成は昭和43年(1968年)と、他地区よりも遅かったことはすでに触れた。隣県の岡山県ではJMHC岡山が発足し活発な活動が始まっていた。「仲間とクラブを作ろうと相談しているころに東京との連絡が取れ、広島でもJMHCの結成をと促され、県内に広く呼びかけた」と言う。遅れてのスタートであったが、規約を決め、会費を集めて会報を発行した。

行事としては家族と一緒に楽しめる「フォックスハンティング」車を連ねての「遠乗り会」のほか、企業の見学会などを行い、災害時の非常通信訓練を実施した。モービル機は無線機メーカーからの発売が始まり、当時の井上電機製作所(現アイコム)のFDFMシリーズ製品を使う仲間が増え始めた。モービル専用製品の発売はモービルハムを増やし、JMHC広島のメンバーは150名を超えだした。一方、日本赤十字社広島県支部とのつながりができ「無線奉仕隊」も誕生した。奉仕隊隊員になるための救急法の勉強にも力を入れた。

JMHC広島の「フォックスハンティング」

藤川さんの奥さん京子さんもJA4HCIのハムとなり、モービルハムを楽しんだ

藤川さんは「JMHCの全国大会には第4回の七尾・和倉温泉、第6回の長野・諏訪湖に出かけた」と言う。和倉温泉に出かけた時には「途中の琵琶湖付近で台風にあい、大変だった」記憶がある。これらの全国大会は昭和44年(1969年)と46年(1971年)に開かれた大会であるが、その間に隣の岡山で行われた第5回は「何らかの仕事があり行けなかった」らしい。

総会は「別に技術的な話題が出るわけではなく、遊びでの車や無線機の話、メンバーの制服を作った、などが中心でモービルハムらしい集りだった」というのが藤川さんの思い出である。しかし、藤川さんは昭和40年(1965年)に結婚し、また、仕事も忙しくなったため会長職は1期2年で退いている。

藤川さんが参加した昭和46年白樺湖で開かれた第6回全国大会

[水害]

昭和47年(1972年)7月11日、島根県、広島県の山間部が豪雨に見舞われ、道路が寸断され各地で孤立する地域が出た。島根県では江の川沿いの桜江町も孤立し、県知事の要請を受けて、島根県のアマチュア無線赤十字奉仕団が被災地に乗り込み、情報伝達、救援物資の依頼などに大活躍をしている。この時の活動振りについてはすでに終えている連載「中国のハム達―井原さんとその歴史」にやや詳しく触れている。

広島県では三次市が被害を受け、警察、県、市の職員、ボーイスカウトなどがボランティアとして活躍した。藤川さんはこの時、会社の低周波治療器、間欠電動牽引器などの電子医療器を納入した病院や医療施設回り、食糧支援を行ったり機器の修理をして回った。「三次市ではJMHCの組織としての活動はなかったが、この時、ボランティアとして活動した仲間は今でも“たなばた会”の名で毎年7月に集っています。そのほぼ全員がハムです」と言う。