[全国大会5回開催]

群馬県館林市。昨年、平成16年(2004年)のJMHC全国大会は同市の「つつじが岡パークイン」で開催された。群馬県での開催は5回目で、全国で最も多い。しかも、このうち3回が館林市で開かれている。後にこの館林市から「JMHC全国連合ニュース」が発行されるなどJMHCにとって館林市は特別な地域といえる。

館林市は群馬県の南東部に栃木県内に突出するような形で位置した人口約8万人(平成17年現在)の都市。東京都心にも無理をすれば通勤可能であり、県庁所在地の前橋市よりも、栃木県足利市・佐野市、茨城県古河市、埼玉県さいたま市・熊谷市の方が近い立地にある。観光客誘致に熱心で「つつじまつり」「世界1こいのぼりの里まつり」「花菖蒲まつり」「手筒花火大会」など年間を通じて多くのイベントが開催されている。

手元に「JMHC群馬」の昭和56年(1981年)度の名簿がある。会員数52名のうち館林市とその近隣の会員は39名と、70%以上を占め、「JMHC群馬」より「JMHC館林」と名付けた方がふさわしいほどである。ただし、JMHCの発足は全国各地と比べて遅かった。

昭和56年度の「JMHC群馬」の名簿

[館林のモービルハム]

首都圏に位置し、東京の影響を受ける地域だけに車に無線機を積むモービルハムが誕生するのは遅くはなかったと思われる。現在も「JMHC群馬」の会長を務めている長澤正明(JA1MJQ)さんは「昭和40年(1965年)代の初めころには少数のハムがモービルを楽しんでいたと聞いている」と言う。昭和36年(1961年)のころ、太田市に転勤していた近藤栄一(JA1AOU)さんは、その地でモービル交信を楽しんでいた。

近藤さんは昭和34年(1959年)10月、東京に「モービルハムクラブ」が誕生してほどなく入会、転勤先の太田市から「当地で東京のモビールがFBに入感しています。近日中にQROしてコールします。その折はどうぞよろしく」と、昭和36年(1961年)9月発行のJMHC会報に寄稿している。当時の会報では全て「モビール」の名称を使っていた。

館林には、その後の「JMHC群馬」の前身にもなった組織として「館林2メータークラブ」があった。そのクラブの中心にいたのが大亀昭夫(JA1FMR)さん、関口伊佐夫(JR1UVS)さんであった。大亀さんはある時期まで素晴らしいバイタリティーをもって館林市はもちろん、全国のモービルハム活動をリードしようとしたことがわかっているが、現在は消息がつかめない。このため長澤さんにしても、関口さんにしても、初期のころの館林のモービルハムの世界がつかめないでいる。

[長澤さんのハムライフ]

長澤さんは昭和15年(1940年)生まれ。ラジオ受信機に興味をもったのは太平洋戦争の終戦から10年近くがたった中学生のころだった。当然のことながら鉱石ラジオ作りから始めたが「最初に作ったラジオでNHKがきれいに聞こえた時の感激は忘れられない」と言う。高校時代には1-V-2の受信機を作っていたが、同時にアマチュア無線に強く興味をもつようになっていった。

現在も長澤さんは「JMHC群馬」の会長を務めている

戦時中そして戦後も禁止されていたわが国のアマチュア無線が再開されたのが昭和27年(1952年)。長澤さんは昭和31年ころには自作の短波受信機で楽しそうなアマチュア無線の交信を聞き、勉強を始める。「教えてくれる先輩は周囲にはいなかった。書店に行き無線雑誌を買ってきては独学で勉強した」と言う。

昭和33年(1958年)に「電波法」が改正され、アマチュア無線の新資格として電話級、電信級を含む4階級が生まれることになり、翌34年(1959年)に最初の試験が行われた。米国などに習って簡単に免許資格を得られるようにするのが新制度の目的であったが、電信(モールス)かできなくてもアマチュア無線の資格が得られることについて、当時は海外からの反発もあった。

[落成検査なし]

長澤さんはこの年に行われた「電話級」の2回目の試験を受けて合格した。すぐに送信管に807を使用した送信機を組み立て、局設備の免許申請を提出した。「局設備の申請書は詳細に記入するため複雑で苦労した」と長沢さんはこのころのことを忘れていない。従来ならばこの後、電波監理局の検査官による「落成検査」が行われることになるが、このころからそれが廃止された。

JARLは、郵政省の協力機関になる目的で法的に認められる社団法人になることを昭和34年(1959年)6月の総会で決定した。これにともない「電話級、電信級および空中戦出力10W以下の無線設備はJARLによる認定で合格」に変更され、落成検査が不要になったためである。

局免許取得後の初交信は館林市内のハムだった。そのころ、長澤さんは就職して栃木県にある工場勤務となっていたが、無線機の前に座る時間は自由に取れる環境にあり、交信に熱中した。JARLの「館林クラブ」にもすぐに加入し、ハム仲間との交流を深めた。

長澤さんが自作時代に使用した各種真空管

[2級免許取得]

「電波法」の改正により4階級が誕生したおりに、従来の(旧)2級は「電話級」に変更され、(新)2級に移行するためには5年以内にモールスの試験に合格すれば良いことになっていた。しかし、最初から「電話級」となった長澤さんの場合、この制度を利用する資格はなかったため改めて2級に挑戦、昭和53年(1978年)に2級を受験し合格している。

2級免許を取得した長沢さんは144MHzを車に載せ、同時に「館林2メータークラブ」に加入、関口さんと知り合う。長澤さんが車をもったのが昭和45年(1970年)であり、最初は「144MHzの固定機をダッシュボードの下に取り付けたものの、運転するたびに車操作の足にあたり運転に苦労した」と言う。

しばらくすると「JMHC群馬」が誕生するが「そのいきさつはよくわからなかった」と言う。「大亀さんと東京の柴田俊生(JA1OS)さんが盛んに連絡をとっていたことは薄々知っていた。その結果"JMHC群馬"が生まれたように思う」と長澤さんは推定している。当時、柴田さんは精力的に全国を駆け回り「JMHC」の組織作りを進めていた。