[上杉さんハムに]

卒業後、上杉さんが就職したのは無線と関係ない建設会社。業務の忙しさと転勤などのため、無線を勉強する暇はなかった。「仕事に慣れてくると、再びアマチュア無線のことが思い出され、免許を取りたいと考えるようになった」と言う。幸い新にやさしい「電話級」クラスができたことから、昭和35年(1960年)に「電話級」を受験し合格。

「早速電波を出したいと思っても、世の中はそう甘くない。無線機を作ることも、電波に関する知識もまったくない」と、上杉さんは落胆してしまう。無線に関する本もほとんどなく「無線と実験」だけが頼りだった。昭和37年(1962年)に仙台市に転勤となり「そこで有能な知人と会い、無線に関する知識を教えていただき、ようやく送信管807シングルの出力10W移動局を作り、免許を申請した」。JA7BGWの誕生である。

「従事者免許を取得してすぐに局免許を申請しておれば2文字コールになれた可能性もあったが、あまり急ぐ気持ちもなかった」と上杉さんは当時を語っている。開局後は7MHz10W、AMでの運用を始めたが「自作機では精度も感度も悪くローカル局としか交信できなかった」と言う。

昭和42年(1967年)第2級アマチュア無線技士と第4級海上無線通信士(当時は電話級海上無線通信士)の免許を取得し、すぐに100Wの固定局を開局している。さらに、昭和46年(1971年)には「小林泰晴(JA7HOQ)さんのご指導、三浦さんの応援を得て」第1級アマチュア無線技士となる。このように昭和40年(1965年)代前半は受験、受験で忙しい生活だった。

上杉さんのQSLカード

[モービルハムに]

上杉さんが車を持ったのが昭和37年(1962年)、仙台に来て間もなくであった。当時は車に載せる無線機もなく、タクシー無線機を改造するか自作するしかないため、モービル通信にもあまり興味もなかったが、50MHzの車載機が販売されるようになってしばらくした昭和43年(1968年)ころに、シングルバンド、クリスタル制御、6チャンネルの無線機を載せ「1m半の長いアンテナを車の後部バンパーに取り付け、さっそうと走った」と当時を語る。

しかし、VHFそのものが普及しておらず、交信できた相手は仙台周辺では数局しかいなかったらしい。モービルハムを始めてから上杉さんは毎日の通勤の車の中でも常時、ワッチを続けていた。通勤は仙台市南西部にある標高100mほどの八木山を越えるルートだったが、ある日、仙台市の南100Kmも離れた原町市のローカル局のラグチューが聞こえてきた。

当時、VHFは長距離通信は無理というのが常識であった。上杉さんは「どきどきした気持ちを押さえてブレークのタイミングを計った。絶妙なタイミングでブレークができ、応答があった。先方も驚いたらしく“えっ、仙台”と絶句してしまった」と、大感激の思い出をもつ。その後はVどころかUも通信距離が延びて「今では1000Kmも夢ではない時代」と上杉さんも言う。

[上杉さんのJARL活動]

上杉さんは山之内さん、三浦さん、石井さんらと知り合い、SMHCの結成につながっていくことは先に触れた。また、上杉さんはJARLの活動にも積極的に参加し、監視委員を務めた後、昭和48年(1973年)に宮城県支部長に就任する。JARLはその前年に組織を改め、エリアごとに地方本部を設け、その傘下の都道府県に支部を置くことを決めていた。

この結果、東北地方本部の初代本部長に野口光男(JA7HC)さんが選ばれ、同時に宮城県支部の初代支部長に上杉さんが選出された。支部長職は1期2年であったが、東北地方本部の監査員を勤めている。しかし「自身の業務は多忙であり、JARLの活動も十分できない」と判断した上杉さんはJARLの役員を退いている。その後はもっぱら、SMHC会長としての活動に力を入れていく。

SMHC発足後間もなくの集まり。車を連ねての会合だった

[山之内さんのハム活動]

SMHC結成の中心となった4人の中の一人である山之内さんは、すでに昭和40年ころに車に無線機を載せていた。山之内さんについては、この別の連載「東北のハム達。山之内さんとその歴史」に詳しく書かれている。ここではモービルハム活動に限って改めて紹介したい。

山之内さんが「2アマ」の免許を取得したのは昭和36年。進学していた神奈川県の大学3年の春休みに、仙台市に帰省していた時だった。卒業後は家業を継ぐために仙台に戻り「父が元気で仕事を切り回していたため、しばらくはアマチュア無線三昧だった」という。山之内さんは昭和30年(1955年)仙台高校に入学するとともに「JARL仙台アマチュア無線クラブ」に所属していたこともあり、知己も多かった。

山之内さん(中央)平成12年、JARL東北地方本部事務局閉鎖の時

[仙台アマチュア無線クラブ]

「仙台アマチュア無線クラブ」がいつごろ発足したかについては、簡単な調べでは見つからなかった。JARLは戦後すぐにアマチュア無線再開のための準備と推進を目的に全国に無線クラブの設立を要請している。この結果、昭和24年(1945年)6月までにJARLに登録されたクラブは32あるが、そのリストには仙台の名前は見えない。

東北では「一ノ関クラブ」が名を連ねているだけである。「仙台アマチュア無線クラブ」に山之内さんが加入した時には、会員に三浦恒裕(JA7AB)さん、神尾健吉(JA7AD)さん、野口光男(JA7HC)さん、そして戦前のハムである高山三雄(戦前J6DH、戦後JA7BU)さんらのそうそうたる方たちが居た。