[霞ヶ浦海事航空隊]

かつて「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨」と歌われた霞ヶ浦海軍航空隊の予科練であったが、訓練どころか敵機来襲のたびに防空壕に避難する生活が多かった。この年の8月15日の終戦の「玉音放送」は、隊内のラジオで聞いた。「玉音放送」とは、天皇陛下ご自身が直接、ラジオを通じて放送されたことを意味したもので、国民に敗戦を納得させるには、それしかないと政府が断行した。

「多分、上層部はあらかじめポツダム宣言の受諾を知っていたと思うが、我々は始めて放送で知り驚いた。それまで絶対に負けることはない、と信じていたからである」と鈴木さんは言う。「不思議だったのは終戦になってから、出撃していった飛行機があり、いくらたっても帰ってこなかったこと」を鈴木さんは予科連時代の強烈な記憶としてもっている。

全国各地でも降伏を知らされた一部の過激な若者は不満をもった。「負けてはいない。戦いはこれからだ」と意気込む将官や兵士の中には、部隊内で反乱を起こしたりして抵抗した。不満をもつ航空兵の中には自暴自棄になり、近海に出撃している米軍の艦船に攻撃するため飛び立った例が少なからずあった。後になって鈴木さんも知ることになる。

[故郷に]

結局、鈴木少年は「望んでいた無線通信の勉強などは何一つとしてできずに終戦を迎えることになった」と言う。終戦後、鈴木少年らは穴を掘って軍事物資を埋めるなどの後始末をし、8月末まで霞ヶ浦で働き、5カ月ぶりに山形に戻る。ちなみに、予科連の卒業生は約24,000人、このうち18,564人が戦死した、と言われている。

山形に帰ってもしばらくは呆然とした生活を送る。当時は国民の多くも同様であった。それまでは全てを犠牲にして戦争遂行のために生活を送っていたからであった。鈴木少年が父親の働く工場に勤めたのは10月になってからである。工場は当然のことながら戦時中は軍需を受けての生産を続けていたが、終戦後はミシンの生産に切り替わっていた。

敗戦により、日本経済は大混乱となり国民は生きるために必死であった。鈴木少年もアマチュア無線どころではなかった。もっとも、アマチュア無線は太平洋戦争開始とともに禁止されたまま、いつ再開されるか分らない情況であった。鈴木少年はいつのまにかアマチュア無線のことを忘れてしまった。そして、長い年月が過ぎる。

終戦後、鈴木さんはミシン製造会社に勤務した

[40歳でハムに]

アマチュア無線との再会は思わぬ形でやってきた。鈴木少年も青年となり、結婚して家庭をもち、子供も成長していった。その子供が中学2年生の時「友達がアマチュア無線の講習を受けるので、一緒に受けたい」と相談してきた。鈴木さんが忘れている間に「電話級」というやさしいクラスの免許が生まれ、しかも、一定の時間講習を受け、その後の試験に合格したら免許が取得できる「養成課程講習会」制度が誕生していた。

それを知った鈴木さんは子供と一緒に受講することを決めた。「できれば、新2級か電信級の資格を取りたかったが、経営しているクリーニング店の経営が多忙であったことや欧文のモールスに自信がなかった」と鈴木さんは言う。免許取得は昭和45年(1970年)のことであり、鈴木さんは40歳になっていた。開局してしばらくはHFでの交信を続けた。

「英語ができないのでDXには怖気ついていたし、アワードにも関心がなかった」と言う。ひたすら、ローカルの仲間との交信が多かったが、どういうわけか、船舶に乗り込んでいたハムとの交信だけは多かった。「赤道付近、アリューシャン列島付近を航海中の船舶との交信は楽しかった」と言う。真冬、積雪の山形に「今、裸で仕事をしています」と呼んでくる赤道近くの船との交信に地球の大きさを実感したりしたらしい。

鈴木さん28歳のころ

[モービルハムスタート]

鈴木さんは昭和38年(1963年)に車の免許を取り車を持った。クリーニング店を開業以来、自転車で配達していたが、雨の日などは不便なため車に代えた。ハムになった鈴木さんはHFを自宅で始めるとともに、車に50MHzの無線機を載せた。先輩ハムが自作したものであった。この当時、すでに何人かがモービル交信を楽しんでいた。設楽要さんもその一人であった。

設楽さんは戦後にアマチュア無線が再開された時に山形県で2番目に免許を取得し、山形放送に勤務していたが後輩たちの面倒をみたハムとして知られている。また、設楽さんは村山新三郎(JA7DR)さんらと「JARL山形クラブ」を発足させた一人である。当初、同クラブは昭和28年(1753年)に山形県一円を対象に設立され、次いで、山形市中心に変わっている。後に免許を取った鈴木さんはすぐにクラブ員になっている。

設楽さんはJMHC山形の代表にふさわしかった。しかし、設楽さんは昭和47年(1972年)から昭和50年(1975年)にはJARL山形県評議委員の職にあり、放送局の業務も多忙であった。このため、JMHC山形の発足時には役職に就くのを遠慮され、顧問となった。ちなみに、設楽さんは51、52年(1976、77年)にJARL山形県支部長に就任している。

発足したJMHC山形の会費は月額2,000円であった。他のJMHC組織と比較すると高額であったが「そのかわり、現在まで全く値上げをしていない」と鈴木さんは言う。ところが調べてみると2,000円は鈴木さんの勘違いであり当初の会費は1,000円だった。

JMHC山形の「竹の子狩りミーティング」