[活発な活動]

会報は不定期ながらも発行が続けられ、それを見ると活発な活動が続けられている。JMHC山形の最初の活動が「YLハントマラソンコンテスト」であり、翌年1月1日から12月31日までの長丁場で行われた。YLとの交信1局に対して1点であるが、モービルでの交信は2点に数えられた。技術講習会も実施され会員のレベルアップを図っている。

ちなみに48年3月の技術講習会は「TVI、BCI対策について」「トランジスターの取扱について」「テスターの使い方について」がテーマだった。QSLカード作成のためのシルクスクリーン作りの講習も実施したこともある。フィールドデーコンテストも行われたが、楽しかったのは車に乗ったままの「フォックスハンティング」だったらしい。

参加した車はほとんどが電波発信源をとらえやすい八木アンテナを屋根の上に取り付けてきた。中にはこうもり傘の骨を利用したアンテナを乗せた車もあった。鈴木さんによると「ある時のJARL山形支部の総会に、こうもり傘の車がやってきたので、モービルハムを知らない会員がびっくりした。その顔を見るのが面白かった」と言う。

JMHC山形のメンバーは潮干がりにも出かけた

[電波伝搬実験]

モービルハムにとって、50MHz、144MHzでどこまで交信できるかが大きな関心事であった。メンバーが増えるのにともなって交信距離の情報が豊かになってきた。仙台とのモービルハムとの交信は案外簡単にできるようになっていった。福島県の会津地方との間でも山形市の近辺の場所によっては可能なことも分ってきた。

昭和46年(1971年)9月から432MHzでの交信に熱中していたメンバーがいた。斯波周衛(JA7NFM)さんであり、会報に交信記録を投稿している。当初は相手がいなかったが、徐々に交信が可能となり、宮城県との県境付近から仙台市内との交信に成功している。このため、JMHC山形は本格的な伝播実験を試み、山形市内と約28Km離れた長井市との間で実験をしたこともあった。

[交通安全を訴える]

会報の2号には「仲間に献血」の報が記載された。16歳の加藤健吾(JA7REL)さんが交通事故で動脈、静脈を切断、輸血を必要としたため、県輸血センターに無線局を開設、協力を呼びかけると14名が駆けつけた、という。また、感電事故が起きると、事故防止の記事が掲載されるなど、タイミング良く社会の動きが反映された会報が発行された。

交通事故防止、安全対策の記事も多かった。「高速道路の利用の仕方」が詳細に紹介されたこともある。山形にも高速道路の開通が迫っており、それを前にしての企画であった。「本線の走行」「ランプウェイと流入」「ランプウェイの追い越し」「インターチェンジの走り方」などのほか「運転手の心理」などまで触れている。交通安全の呼びかけが多いのは「会員に警察官が多かったため」と、鈴木さんは言う。

2代目会長に警察官の滝口さんが就任すると、さらに社会的な活動は活発となる。滝口会長はあらゆる面で積極的で前向きであった。初代会長が「アマチュア無線の発展」「地域住民の福祉」を掲げた理想を実現しようと動いた。滝口会長の時代に「JMHC山形」はJARLの登録クラブとして加わっているが「県内の特殊クラブの第1号だった」と鈴木さんは言う。

全国にあったJMHCの組織の目的は「モービルハムの親睦」であり、大半が「モービル通信を楽しむ」「ドライブを楽しむ」ことに主眼を置いていた。このためJARLと距離を置いていたところも比較的多かった。これに対して山形の場合はJARLと一心同体であった。山形とよく似たケースは名古屋市を中心とした「JMHC東海」であり、社会的な活動も多かった。

[全国大会開催]

滝口会長と鈴木さんは昭和50年(1975年)8月に群馬県館林市の文化会館で開かれた第10回の全国大会に始めて参加した。滝口さんはこの大会に参加して「山形でも開催しよう」と決意する。会場で知り合ったJMHC東京オールドの柴田俊生(JA1OS)さんやJMHC群馬の大亀昭夫(JA1FMR)さんと親しくなり、全国大会開催のノウハウを学ぶ。

翌年の第11回は静岡県で開催されたため、山形での開催は昭和52年(1977年)となる。会場は天童温泉の紅葉苑。開催日はさくらんぼがたわわに実る6月25日。大会ではアイコムの社員が「PLLシンセサイザー」について解説したほか柴田さんは自らセミナーの講師を引き受けるなど支援してくれた。全国からの出席者は86名だった。

JMHCが初めて主催した天童温泉での全国大会

[鈴木さん会長に]

昭和55年(1779年)、鈴木尭(JH7CXX)さんが会長となる。警察官である滝口さんは転勤が多く、会長職を続けられなかったのが理由である。鈴木さんは引き続き事務局長を務めることになったが、翌56年(1981年)には会長に就任する。就任した翌年には再び天童温泉で全国大会を開催する。開催日は10月1日、会場はホテル王将であり75名が参加した。この年はJMHC山形が発足して10年目に当たり、鈴木会長は、全国から集った出席者を前にして10周年のお礼と歓迎の挨拶をした。

ちなみに、この時の出席者の内訳はJMHC大井町、栃木各3、群馬13、静岡7、広島6、北陸2、長野9名のほか山形からは29名が参加し、さらに無線機メーカーなどの関係企業から11名が加わった。JMHC山形の会員は増加を続け、翌58年(1983年)には84名にまで増えている。

鈴木さんは群馬の全国大会に出席して以来、毎年全国大会には欠かさず出席している。しかし、JMHC山形の会員も減少に転じ、会報は昭和62年(1987年)を最後に発行されていない。この年の会員数は53名。現在では会費の徴収もない。全国的にJMHCの組織は消えつつあるが、鈴木さんにとっては全国大会の開催を維持することが「責務」ともなっている。「わずかな人たちではあるが、毎年の再開を喜んでいる人がいる限り、お役に立ちたい」と言う。

平成9年、JMHC山形の創立25周年の集まりがあった。旗の左側をもっているのが鈴木さん