[現在も続く活動]

全国各地にできあがっていたJMHCの組織は、昭和50年(1975年)代にほとんどが自然消滅する。一般家庭で車が持てるようになり、また趣味が多様化しアンテナを立てた車に乗っていることがステータスでなくなったことや、50年代半ばに自動車電話が登場したことなどが理由だった。さらにその後PHS電話、携帯電話の普及が進み、モービル通信の魅力がなくなる過程を辿っている。

そのなかで、岐阜県全域を対象とした「JMHC岐阜」は、50年代を通して活発な活動を続け、現在に至っている。もちろん、現在では「かつての活発さがなくなった」という会員の意見も少なくないが、会員数はいまだに90名を超えている。最初から岐阜県のモービル通信とともに歩んできた平光仁(JA2MUP)さんは「今後ともJMHCは続いていく」と断言する。

岐阜県のモービルハムを眺め続けてきた平光仁さん

平光さんは昭和41年(1966年)4月に「電話級」に合格、12月に開局し「JMHC岐阜」の前身である「GMHC(岐阜モービルハムクラブ)岐阜」のさらにその前からモービルハムの仲間と交流しており、現在は顧問職にある。その平光さんは「JMHC岐阜の交流が会員の生活のベースにまでなってしまっている。無線がいわばインフラにまでなっているため、欠かせない集まりとなっている」と説明する。

[遅かった免許]

平光さんは昭和20年(1945年)生まれ、家業は自転車、オートバイの卸し業であり、比較的恵まれた少年時代を送っている。岐阜市内の長森小学校に進んだ平光少年はどちらかというと「昆虫少年」の生活を送った。多くのハムが経験する「ラジオ少年時代」はなかったといってもよさそうだ。昭和32年(1957年)小学校6年生の時である。近くの人がトラックに真空管式の無線機を積みこみ「移動実験をしているのを見て、アマチュア無線を知った」と言う。

「それまでアマチュア無線を見たこともなかったので、興味をもった」平光さんであるがそれからも無線とは関係のない学生時代を送ることになる。名古屋にある大学の機械工学科に進学、むしろ自動車工学にに興味をもっていたため、アマチュア無線の免許を取得したのは大学2年生になってからである。

「局免許を申請してからだいぶ待たされ、半年後にようやくJA2MPUのコールをもらった」平光さんであるが、それからも「悪戦苦闘しました」と言う。HF機のキットを購入して組み立てたが上手く働かない。「テスターでチェックするとハンダが上手く付いていなかったり、あせりました」と、苦労を語る。

[HFからVHFへ]

「OMさんの指導を受け3.5MHzと7MHzの電波が飛んだのが12月末ごろだった」と言う。その後、数カ月HFで全国と交信していたが、ローカル局との連絡用に50MHz機を購入。「50.6MHzwで連絡しあいながら情報交換することでHFの運用も効率よくできた」と当時を語っている。卒業後、平光さんは大手自動車メーカーの販売子会社に勤めるが「家庭の事情から岐阜で教師の職を得た」と言う。

やがて、HF帯では徐々にSSB(シングル・サイド・バンド)形式が主流になり始めたことや、交信が混み合ってきたために平光さんは50MHzのVHFに軸足を移し始める。「そのころの50MHzはA3形式が主流であり、しかもEスポの時期は結構遠方とも交信できた」と言う。すでにそのころには岐阜市を中心に車に50MHz機を積むハムが増え始めていた。

[50MHzクラブ結成]

岐阜の場合には「JMHC岐阜」の前に発足した「GMHC岐阜」のさらに前身があった。「昭和43年(1968年)4月ころだった」と平光さんは記憶している。個別に50MHzで交信していた仲間の使う周波数が、徐々に同じ周波数になり、いつの間にかグループができつつあった。タイミング良く若原久(JA2DPY)さんが50.6MHzでクラブを作ろうと言い出した。クラブの名称は「50MHzAMモービルクラブ」と、実態がそのまま分るものだった。

平光さんのほかに児島保(JA2NSF)さん、藤井省三(JA2LDN)さん、吉田善次(JA2DBI)さんらが加わったらしい。会長は児島さんだった。しかし、このクラブはわずか半年程度で「GMHC」に発展する。きっかけは50MHzから144MHzへの転換だった。平光さんによると「当時50MHzのAMはノイズが多かったため、秋ごろには仲間でFMにすることを検討し始めた」と言う。

昭和44年6月、50MHzAMモービルハムクラブのメンバーは郡上八幡へドライブした

[GMHC岐阜結成]

ほどなくすると吉田さんから「業務で使っている無線が30MHz帯から150MHz帯に変更されたが、大変に電波の品質が良くなった」という話しがあった。VHF帯のアマチュア無線機も、このころには50MHzから144mMHzにも広がり始めており、全国的にモービルハムが使い始めていた。

このため「50MHzAMモービルクラブ」も早速検討を始めた。平光さんの記憶では「144MHz帯FM機は多くの仲間は業務用を改造して使っていたが、メーカーからの販売が始まったため、それを使うようになった。昭和44年(1969年)ころのことだった」と言う。クラブのチャンネルも145.70に決まり、それにともない「50MHzAMモービルクラブ」の名称も「GMHC岐阜」へと変わった。

昭和50年前後の平光さんの車