[免許より自作]

アマチュア無線の再開が許可されないこともあって、さまざまな無線やラジオ雑誌は盛んに読者からの短波受信報告を掲載していた。「雑誌を見て、同じ三重県にも私と同様にSWLがいることを知った」と言う。奥村節夫(後にJA2LHG)さん、村阪俊雄(同JA2CFM)さんらの報告が掲載されており「同郷の人の活躍は心強かった」ことを覚えている。

昭和26年(1951年)ようやくアマチュア無線の国家試験が行われ、翌年7月末に初めての予備免許が全国の30名に与えられた。もちろん、松ケ谷少年も雑誌を通してこのような動きは知っていた。「知ってはいたが、免許には興味がなかった。それよりも受信機を作る方が面白かった」とそのころのことを語る。

もっとも、そのころの松ケ谷少年の年齢は15歳。周囲にはアマチュア無線の手ほどきをしてくれる人はいなかった。第一回予備免許を受けた多くは戦前のハムか、若い人でも無線通信について勉強してきた20代のいわゆるベテランがほとんどだった。「興味がなかった」より「興味を持っていてもなすすべがなかった」のが実情だったらしい。

[ハムに]

昭和27年(1952)年、松ケ谷少年は津商業高校に入学する。「ラジオ部」や、ましては「無線部」などはなかったらしく「放送部」に入部「807真空管を使っての放送用のアンプを作るなど、オーディオ機器に興味をもった時代だった」と言う。そして、しばらくして知り合った友達との出会いがハムへの道に進ませることになる。

学校で短波放送を話題に話をしていると「私の兄がハムです」と言う同級生がいた。松ケ谷さんが初めてハムを身近に感じた瞬間であった。「早速、遊びに行きお兄さんを紹介してもらい、シャックを見せてもらい話も聞かせてもらった」と言う。三重県では最初のグループとして免許を取得した石田正多(JA2AH)さんであった。

松ケ谷さんはそれまで知りたかったアマチュア無線のことを何でも質問した。石田さんも弟の同級生に知っていることはすべて教えてくれた。送信機の作り方、試験の問題などについてほぼ見当がついた松ケ谷さんは、高校卒業の年に名古屋市に出掛けて第2級アマチュア無線技士を受験し、合格する。

免許取得後の自作送受信機

[1アマに]

高校を卒業した松ケ谷さんは三重県教育委員会事務局に勤務。このころからのしばらくは恐ろしいほどの向学心を見せる。1年後、松ケ谷さんは三重短大に入学する。「公務員になるためには公務員試験に受かっていなければ、と考えおもに法律と、経済を勉強した」と言う。そして、計画通り当時の「国家公務員中級試験」に合格する。

勤務先は名古屋市にある当時の大蔵省東海財務局に変る。そのころの「恐ろしいほどの向学心」に触れると、松ケ谷さんは「第1級アマチュア無線技士」受験の準備を進めると相前後して「司法試験」や「公認会計士」試験に挑戦した。ともに、資格としては最難関の国家試験であり、両方に同時に挑戦する人は極めてまれといって良い。

3つの国家試験のうち合格したのは「1アマ」だけであったが「1番うれしかったのが1アマであったので満足した」とあっけらかんに思い出を語る。東海財務局の勤務は名古屋市中区大津橋。通勤が不便なために南区南陽町にあった寮生活となった。当然のことながら寮ではアマチュア局を開設できず、もっぱら週末に家に帰っての運用だった。

[三重、名古屋DXの両クラブに所属]

昭和30年(1955年)ハムになった松ケ谷さんはすぐに地元に発足していたJARL三重クラブに入会した。会長は石田さんであり、石田さんが中心となって運営していた。また、五家肇(JA2CJ)さんや金丸睦生(JA2HT)さんもこのクラブで活躍していた。しかし、名古屋で過ごす時間が多かった松ケ谷さんは「役所の地域にはクラブがなかったため、名古屋DXクラブとともに行動する方が多かった」と言う。

当時の三重クラブは約40名。石田さん、五家さん、金丸さんなどもそうだが2文字コールの会員が多く「技術的なレベルも高く、いろいろ教えていただいた」記憶が鮮明だと言う。2文字コールは戦後にアマチュア無線が再開された後に早くに免許を取得したハムのコールで、その後、免許取得者が多くなったために現在のようにサーフィックスは3文字になったいきさつがある。

昭和34年ころの松ケ谷さんとシャック

[スプートニク受信]

このころの松ケ谷さんの思い出は当時のソ連が打ち上げた人工衛星「スプートニク」の信号を受信したことである。昭和32年(1957年)10月5日、松ケ谷さんは教育実習生としてある高校の職員室にいた。昼のニュースでソ連が人工衛星を打ち上げたことを聞いた時「ハムのかたわら天体観測にも凝っていた私は何か言い知れぬ感動と驚きを味わい、急いで家に戻りシャックに飛びこんだ」という。

自作の高1中2受信機でモスクワ放送を聞いた松ケ谷さんは「スプートニク1号」が20.005MHzおよび40.002MHzの信号を出していることを知る。「これなら受信できそうだと挑戦するが、当時は周波数に合わせることが難しい。10MHzのJJY(標準電波)を聞き、ディップメーターでゼロビート、その高調波をマーカーにしてワッチに入ったと」と言う。