[会報の発行]

昭和46年(1971年)に発足したJMHC三重はすぐに会報を発行した。手書きの原稿を当時のジアゾ式複写機でコピーしての配布だった。会報はやがて、手書き原稿は普通紙複写機のコピーとなって写真も挿入され、さらに活版印刷へと進んでいく。ピーク時の昭和48年(1973年)ころから51年(1976年)ころには毎月のように発行されている。

会報の中身は総会、忘年会、新年会の案内・報告、ボーリング大会、フォックスハンティング、遠乗り会、ソフトボール大会などの行事案内やその報告、さらに他アマチュアクラブ局、アマチュア局の紹介などを時に触れて紹介している。また、TVI対策、イグニッションノイズ対策の技術記事、マルチバイブレーターリレー回路の製作記事も掲載されたりもした。

昭和48年(1973年)8月18、19日に県内の長島温泉で「第8回JMHC全国大会」が開かれた。三重県では初の開催であり、愛知県をエリアとしている「JMHC東海」が全面的に支援して行われた。愛知、三重、岐阜の東海3県の呼称である「東海」を名乗っている「JMHC東海」との関係については「両者の関係をすっきりしたらどうか、との意見も出たことがあったが、傘下に入る必要はないとのことで独立して進むことを決めたいきさつもあった」と、松ケ谷さんは言う。

[松ヶ谷さんJARL三重県支部長]

昭和50年度の総会で「JMHC三重」の会長に引き続き中桐さんが、副会長には永井凱巳(JA2DRG)さん、大田 有(JA2PJY)さんの両氏が就任し、松ケ谷さんは相談役に退いた。昭和51年(1976年)になると、2年前から顧問職にあった伊藤さんがJARL三重県支部長に立候補することになった。

当時「JMHC三重」は、三重県下のJARL登録クラブの中では最大の規模となっており、伊藤さんの支部長選出を全員で支援する体制をつくっていた。ところが伊藤さんの立候補資格がJARLの選挙規程に触れることが判明し、立候補届が不受理となり、急遽、松ケ谷さんが立候補することになった。

松ケ谷さんはJARL三重県支部長に選ばれ、一方の伊藤さんは「JMHC三重」の会長に返り咲いた。この年の5月に発行されたJMHC三重ニュースで、松ケ谷さんは「支部長就任に当たって」の一文を寄稿している。この中で「図らずも大役をお引き受けすることになった」と、冒頭でいきさつを説明している。

松ケ谷さんがJARL三重県支部長の期間中に開かれた「三重県ハムフェスティバル」

[JARLはハムを代表する社団法人]

「就任に当たって」の主旨を以下に記す。――三重県のJARL会員は1000名をこえ、ハムの実数はその数倍にも達していると推測できる。この増加にともないその楽しみ方も多様化する一方、お互いのハムとしての連帯感が薄れつつあるように思われる。JARLの事業としては会員相互の親睦を図ることはもちろん、ハム全体の利益に直結する問題に組織として対処しなければならない。――

その問題について例をあげ――例えば世界的にはWARC(世界無線通信主管庁会議)において決定されるハムバンド割り当ての問題、また、国内では本年度から実施されているV・UHFバンドプラン、それに県内では近日中に発射されるポケットベル電波による混信問題――を指摘する。そして、結論として「一人でも多くの方々にハム全体に目を向けていただき、JARLへの関心とご協力をお願いしたい」と述べている。

ポケットベル局による混信とは、この年の6月より津、松阪で146.84MHz、250Wで試験電波が発射されたポケベル用の電波のことである。JARL三重県支部では混変調で困っているという苦情に対し、その具体的な情況調査を会員に呼びかけた事件である。ポケットベルは昭和43年(1968年)に東京都内でサービスが始まって以来、順次全国への普及が始まっており、電波障害対策の実績もあり三重のケースもほどなくして解消された。

JAMSATの打ち合わせ会合。松ケ谷さんは「野次馬的メンバー」だったと言う

[多彩なハム活動]

松ケ谷さんはJARL三重県支部長の職を1期2年で辞する。「臨時にやることになった職であり、後任者に早く譲りたかった」のが理由である。いずれにしても、JARL三重県支部とJMHC三重とは「不即不離の関係であり、JARLの行事には全面的に協力した」と言う。ただし、他のJMHC組織が積極的に関係を作った日本赤十字とはつながりがなかった。「アマチュア無線の別なグループが日赤の災害時支援を行っており、そこにまかせたため」と言う。

その後の松ケ谷さんのアマチュア無線活動歴は目覚しい。JARLは昭和61年(1986年)アマチュア無線通信衛星を打ち上げに際し、デジタル通信のBBS機能搭載を計画した。関連知識をもっていた松ケ谷さんは、その推進機構であった「アマチュア衛星委員会」の米田治雄(JA1ANG)さんに誘われて、正式メンバーではなかったが「野次馬的メンバーであった」と言う。

[EMEに挑戦]

この通信衛星によるパケット通信は、松ケ谷さんにマイコンの自作を習得させ、また、EME(月面反射)通信の道へと進ませた。昭和40年代の末、エレクトロニクスの先端マニアは、MPU(マイクロプロセッサー)使ったマイコン(現在のパソコン)を自作したが、松ケ谷さんもその一人であった。

EMEの挑戦は平成6年ごろから始め、さまざまな苦労をしながらようやく平成8年(1996年)5月に設備の変更検査を受けて、送受信に成功。「月面に反射し2.5秒遅れで返ってくる自分の電波にキーを打つ手が震えた」と当時を語る。松ケ谷さんは若いころから天体観測にも興味を持っており、反射レンズも自分で磨くことまでする。その自作の望遠鏡を使って撮影した「月面の写真を見ながらEME通信を楽しむのは無上の喜び」と言う。

松ケ谷さんは現在でも「ジャンクを買ってきて、それをどう利用しようかと考えることが楽しい」と自作を続けている。マイコンの自作から始まったIT(情報技術)では、ホームページを立ち上げるほどになった。さらに、娘さんが嫁ぎ弾く人の居なくなった自宅のピアノの演奏にも自己流で挑戦。松ケ谷さんの多彩なハムライフと趣味については、改めて詳細に紹介する計画である。

自作時代のマイコンに挑戦し、完成させた