[JMHC佐賀の再建]

第40回のJMHC全国大会が今年は山形で開かれたことは先に触れている。出席者は各地のJMHC組織の代表というよりも個人としての参加であり、毎年の集りが楽しみで加わっているハムがほとんどといってよい。そのなかで若い世代の一人が佐賀県の松永勉(JH6RSE)さんである。松永さんの全国大会への参加は平成12年(2000年)の福山大会からで、以来、昨年(2004年)の群馬を除き毎年参加してきた。

JMHC佐賀の再建後に活躍する松永勉さん

その松永さんがJMHC佐賀の再建メンバーとして加わったのが昭和54年(1979年)のことである。再建の呼びかけは古川泰彦(JA6EHG)さんで、当初7名でスタート。松永さんはメンバーの1人である中山均(JH6CAX)さんに空の上で誘われての参加であった。その中山さんは「佐賀の2mで、この人を知らない人はもぐりだ・・・」とまで言われたアクティブモービルハムであった。

すでにこのころには他都道府県のJMHC組織のほとんどは解散状態に近くなっていたが、九州地区だけは「JMHC九州連合」が残っており、それに支えられての再建だった。それ以前に存在した旧JMHC佐賀は、わずか数年で活動が停止してしまったいきさつがあった。

[九州のJMHC活動]

どういう理由かが不明であるが、JMHC活動を全国的に見ると「西高東低」の色が濃い。九州、中国地区では各県はおろか、県内に複数のJMHCができあがったのに対し、北海道、東北地区では必ずしも各県に発足したわけではなかった。活発だった九州では理由があった。昭和42年(1967年)という早い時期にJMHC熊本を立ち上げた原田隆治(JA6GNI)さんの存在であった。

JMHC九州連合を立ち上げた熊本の原田さん

JMHC熊本のところで触れたが、原田さんは昭和42年(1967年)にJMHC熊本を結成させた後、九州全域にJMHCの設立を持ちかけ、全県のJMHCの集りである「JMHC九州連合」を作り上げる。その呼びかけの結果、JMHC組織を結成させた県も多い。JMHC佐賀の発足時期は不明であるが、その呼びかけに応じてできあがったと推測できる。

昭和47年(1972年)6月3日、佐賀県武雄市の御船山観光ホテルで「JMHC九州連合大会」が開催された。JMHC佐賀はその連合大会にあわせて発足されたとみられるため「恐らく昭和45、6年(1970、71年)の頃でなかったか」と松永さんは推理する。事実、昭和47年(1972年)~48年(1973年)のモービルハムコールブックに初めてJMHC佐賀が掲載されている。

[初代JMHC佐賀]

そのコールブックによると、会長は松永次夫(JA6EVG)さん、副会長は古川泰彦(JA6EHG)さんであり、広報担当が小柳譲治(JA6RQ)さん、会計が栗山直成(JA6TEZ)さんであった。このほか、役員として村島巽(JA6UX)さん、滝本和美(JA6BLS)さんが選ばれていが、その後の再建に関わったのは古川さんだけである。

出来上がったJMHC佐賀は、早くも昭和48年(1973年)には休止状態となる。このため、翌年1月に開かれた「JMHC九州連合会理事会」の席上で「JMHC佐賀の休止を九州連合としててこ入れしよう」との議題が出ている。活動休止の原因は組織運営の難しさにあったといわれている。

[アマチュア無線との出会い]

昭和33年(1958年)佐賀県の小城町(現小城市)に生まれた松永さんはこの頃中学生で、まだアマチュア無線も初めておらず、このようなJMHCの動きとは無縁であった。小城町の桜岡小学校を卒業した松永さんは昭和46年(1971年)に小城中学に入学。その頃、半田ごてを握る工作仲間が2人いて、3人でアンプなどを自作して出来映えを競い合っていた。

中学時代に自作したオーディオアンプ

当時の愛読書は「ラジオの製作」「初歩のラジオ」であるが「アマチュア無線の記事は自分には手の届かない世界とあきらめて、あえて避けて読んでいたが、チャンスがあるならば、やって見たいという気持ちは一時も忘れたことがなかった」と言う。「ラジオ少年」となっていた松永さんを知っていた近所の先輩から「自分の知り合いがアマチュア無線をやっているので一緒に見に行かないか」と誘われたのが松永少年のアマチュア無線との最初の関わりとなった。

実は、その先輩もアマチュア無線をやりたかったが、国家試験になかなか合格できず最後は断念してしまった。誘われて行ったのは、近所でスーパーマーケットを営んでいる経営者の息子さんのところであった。立派な無線機が何台も並んでおり、マイクを握って楽しそうにQSOをしている様子を見た松永少年は「やはりアマチュア無線は相当お金がかかるのだ、僕には絶対無理だ」との思いを強め、つらく悔しい思いをして帰った。

[アマ無線に夢を膨らませる]

松永少年が再びアマチュア無線と遭遇するのは中学2年の時だった。友達のお兄さんがアマチュア無線をやっていると聞いて、早速遊びに行った。最初に見たような大がかりな設備ではなく、こじんまりとした設備に松永少年は驚く。そのお兄さんは「これでも十分アマチュア無線を楽しめるよ・・・免許さえ取れば、君だって出来るよ・・・」と励ましてくれた。

「夢に向かって一歩近づいたような気がした」と松永少年の胸は高まる。その励ましてくれたお兄さんとは、後に高校で再会する。松永少年の家は決して貧しいわけではなかったが、両親は無駄遣いを許さず小遣いは少なかった。「父は当時の国鉄(現在のJR)に勤務していたが、車も持たず、家にはカメラもなかったので、小さい時の写真はあまりない。しつけはとても厳しかった」と言う。