[運命の出会い]

松永さんのジャンボモービル時代、当時キャリアカーのドライバーだった米田久昭(JA6OVL)さんと交信しながら偶然にも前後を走行することになった。JMHC佐賀の話をすると、なんと旧JMHCのメンバーだったのである。松永さんは迷うことなく会員に誘い込んだ。現在ではJMHC佐賀には欠かせない存在となっている。会長としても活躍、「他に例を見ないくらい個性の強い人間でJMHC佐賀の名物男として九州大会はもちろん、全国大会でも今では知らない人はいない思う」と松永さんは言う。

また、松永さんが結婚するきっかけを作ったのもOVLさんである、「まさに人生に転機を与えてくれた人の1人である」と言う。ジャンボモービルは採石運搬の大型ダンプで、当時建設中のダム工事現場へも頻繁に採石を運んだ。そんなある日、ダム工事現場で、体調不良のために半年で退職した「光陽無線」の先輩達と偶然出会った。先輩達はダムに関わる電気通信関連の仕事中であった。そのことがきっかけとなり、松永さんは再び福岡の光陽無線へ入社し、テレメータ、マイクロ回線、防災行政無線など九州一円の無線局を飛び回り、実に充実した日々を過ごすことになる。

九州連合佐賀大会で景品配布をする松永さん。左から2人目

[開業独立]

月のうち半分以上は出張で、佐賀に帰るのは不定期であったがJMHCメンバーとの交流は欠かさなかった。しかし、いつの頃からか、松永さんは「自分で何かをやりたい」と独立の夢を見るようになる。佐賀市内に松永さんが学生の頃から電子工作の部品調達に利用していた老舗の電子部品店があった。偶然にも「光陽無線」という名前で、店は高齢の女性経営者が1人でやっていた。

電子部品店「光陽無線」の前経営者と前店舗内

その経営者は日頃から、なじみの客へ「私も高齢なので、誰か後継ぎがいないだろうか・・・」ともらしていた。松永さんも聞かされた客の1人である。25歳になっていた松永さんは「好きな電子関係やアマチュア無線機の販売に携われるなら願ってもないこと」と、多少の不安はあったが決心。商品、権利など一切を買い取る。昭和59年(1984年)5月に独立開業。商売は全く始めてであったが、がむしゃらに頑張った。

[趣味と販売の狭間]

このころ、日本のアマチュア無線局数は順調に増加を続けていた。九州でも昭和51年(1976年)に約3万局であったものが、10年後の昭和61年(1986年)には約7万2千局へと2.4倍に増えた。その後も順調に増加を続け、平成7年には13万局となっている。当然、この過程で需要は増え続けた。そして平成元年(1988年)には現在の店舗へと移転している。

一方、JMHC佐賀の活動にも積極的となり、その活動を通じて昭和61年(1985年)に結婚。ただし、会員は16名程度に減少していく。松永さんは事務局を引き受けたが、それなりに悩みがあった。「JMHCの活動や、アマチュア無線PR活動に力をいれると、無線機の販売がやりにくくなる」ことであった。「熱心に活動すればするほど、店の売上を上げるためではないか、と思われそうで、そのことを考えると、気になってしまい、販売が鈍ってしまう」からである。「販売店をやる前のアマチュア無線が一番楽しかったですね」と立場を気にしている。

アマチュア無線局は平成7年をピークに減少期に入る。松永さんは需要が増加し始めたパソコン販売も兼業、店名も「アクティブ」に変え、現在では「パソコン教室」も兼営、アマチュア無線機は注文を受けて取り寄せて販売している。また、電子部品はネットショップ「部品屋ドットコム」を開き順調に売り上げを伸ばしている。今、松永さんは「アマチュア無線を通して色々な人と出会えるすばらしさ」そして「電子工作を通して、ものを作る喜びを多くの人へ伝えていきたい」と語っている。

[JMHC佐賀の現状]

昨年(2004年)松永さんはJMHC佐賀の事務局担当を片江義明(JE6JAB)さんに譲り、副会長に就任した。それでも、隠れ事務局(裏の事務局)として、現事務局をバックアップしながらクラブの運営に積極的に関わっている。現会長は長年、JMHC佐賀の会計を務めてきた山崎顯治(JF6BJW)さんである。

JMHC佐賀は会員が減っても活発に活動している。2000年1月

松永さんは、JMHC佐賀が継続していることについて「利害関係がなく、決して強制をしないことに秘訣がある」と言う。松永さんはメンバーの中で一番若い。「それでも、いつも言いたい放題の自分を、年の差関係なしに扱ってくれ、困った時にはお互いが助け合い、嬉しいときはみんなで喜びあう。ありがたい仲間である」と言う。松永さんが独立するときの開店準備、店舗を新築して移転するときの引っ越しなど、大変なときには、いつもメンバーが力を貸してくれた。

まさに「かけがえのない、すばらしい仲間達である。イベント開催時の集まりのよさも自慢の一つである。そんなクラブを通して、実に多くのことを学ばせてもらった。趣味の集まりだから義務化してはいけない、あくまで自由な組織として、今後も交流を深め、クラブの運営に尽くしていきたい」と考えている。来年(第39回)の九州連合大会は佐賀の当番であり早速、実行委員会を結成し松永さんは実行委員長として準備に取りかかり始めた。

[すばらしい出会い]

「人は出会いと別れを繰り返す」と松永さんは言う。JMHCを通してこれまで色々な人たちと出会った松永さんは「電波の上で出会うのはもちろんだが、アイボールで出会うのは、また違った感動がある。人との出会いとは実に不思議なものだと思う。あの時、あの人に会っていなかったら・・・、あの時、自分が参加していなかったら・・・などなど、そう考えると、まさに一期一会の心を常に忘れずに、これからも活動を続けていきたい」と、交流の大切さを強調している。

松永さんにとっての「出会いと別れに」最近もう一つの思い出が加わった。「今年(2005年)8月の九州連合長崎大会で二次会まで楽しく騒ぎ、とても可愛がっていただいていた吉村信義(JA6AKR)さんが9月末に突然の事故でサイレントキーとなられ、とても他人事とは思えない悲しみを経験した」のである。吉村さんは、この連載のために亡くなる直前まで情報交換し、貴重な資料を松永さんに送ってくれていた。「まさか、それらの資料が遺品になるとは夢にも思わなかった」と涙ぐむ。

[OMさんからのプレゼント]

また、松永さんのアマチュア無線人生のなかで、ひとつの強烈な思い出がある。開局して間もない頃、同じ県内の中島恒夫(JA6AAM)さんと50MHzで交信した。それから10年後、中島さんとは販売店とお客様の関係でアイボールすることになり、いろいろな話を親しくするようになった。

中島さんは佐賀・福岡の県境にある背振山の広域レピーター設置にも貢献した方でもある。その中島さんが、ある日、松永さんの誕生日を聞いてきた。その数日後、中島さんは、松永さんの生まれた年月(1958年10月)号の無線雑誌「CQ ham Radio」をプレゼントしてくれた。松永さんは今も大切に保管している。「残念なことにその中島さんも数年前にサイレントキーとなられた」と寂しそうだ。