約80回にわたってJMHC(日本モービルハムクラブ)について書き続けてきた。連載は活発に活動してきた地域を選んだつもりであるが、あるいは漏れている地域があったのではないかと心配してもいる。JMHC組織が急速に拡大を続けたころ、JARL(日本アマチュア無線連盟)の一部から「JARLに対抗する組織を作ろうとしているのでは」との警戒する発言があったといわれているが、一時はそれほどまでに巨大となった組織がJMHCであった。

しかし、実際にはそれはできなかった。他地域よりも圧倒的に早々と組織を作り活動を始めた東京の一部の会員が、当初、全国的な組織づくりのために走り回ったものの、継続性はなかった。また、全国各地に組織ができあがった昭和40年代(1965年―1974年)の後半に、再び全国組織を作り上げようとの試みがあったが、短期間で挫折してしまった。

全国組織ができなかった理由はいくつかある。最大の理由は「車に無線機を載せ通信を楽しむことが目的の集りに、全国組織が必要なのか」という思いが幅広くあったことである。また、各地のJMHCの集合体の目的はさまざまであったことである。後に分析するが、単なる「遊び」のグループから「技術指向」の集り、さらには「社会貢献」を目指した集団もあった。全国組織の結成は明確な目的が一つでなければむつかしいということでもある。

日本最大の組織となったJMHC東海は、ちょっとした集りでもたくさんの会員が集まった

さらに、全国組織を構築する場合に常識的には中央である東京が中心になるべきであったが、その時期には母体となるべき「JMHC東京」はすでに「東京オールド」へと解体されてしまっていた。同様に、昭和40年代後半での試みのころにはすでに、組織力がなくなっていた地域が増えており、糾合が難しくなっていたといえる。

推定ではあるが、各地のJMHC組織に加わった会員は6千名程度、加わらなかった会員を含めるとモービルハムの人口は多く見ると3万人を超えたかとも思われる。初期のモービルハムは、JARLの活動よりもJMHCの活動に熱中した。しかし、脱退も早かったし、組織の崩壊も早かった。それだけに、この連載を始めたころには「JMHCとは何だったのか」という思いが付きまとった。

連載を終えた今、その答えが見つかった。「そんなものだった」ということである。真剣に取り組んできたJMHC組織には申し訳ないが「集りたかったから集り、やめたかったからやめた」という自由な組織がJMHCだったのであろう。ほとんどの組織は会報を発行し、会費を集め、総会も開催してきたが、想像した以上に記録が残っている組織は少なかった。もちろん、発足以来の資料がきちんと残されている組織もあり、その資料が他地区を書くに当たって参考になったケースも少なくない。

また、JMHCを立ち上げたころ中心になって活躍したハムがサイレントキー(故人)となっている地域も多かった。とくに地方では、話しを伺うことのできたハムは昭和40年代後半に会員となった方が多かった。それだけに口答でも初期の動きを聞き出すことができない地区も多かった。もっとも取材に十分な時間が避けなかったことも理由である。そのため、やむを得ず発足当初の模様をあいまいにした地方もできてしまった。

昭和48年(1973年)にモービルハム専門誌「モービルハム」が発行された。電波実験社勤務の川合信三郎が発行したものであり、その川合さんには連載スタートに当たり、助言を仰いだり、途中でもたびたび相談にのっていただいた。ただし、資料としては貴重なことが書かれているであろうその雑誌は一切見なかった。労力を割いて取材、執筆、編集、発行をされた雑誌からの引用は失礼と思ったからである。

今、思うとそれが正しかったのかどうか悔やんでいる。参考にさせていただいていたら、もっと肉厚のある連載ができたと思うからである。その代わり、この連載のまとめとして、川合さんから思い出を伺うつもりでいる。また、この連載は「JMHC東京」から始めたが、その後身である「東京オールド」の現況についても最後に記すつもりである。

JMHC東京が初期に制作したQSLカードとステッカー。今年(2005年)の第40回大会に再制されて配布された

今回の連載はJMHC全体の歴史を概観するのが目的であった。しかし、あまりにも全国各地のJMHC組織の動きが独自であったために、それぞれの組織の歴史は書き得ても、かえって、全体的な流れが掴めない弊害が出てしまった。つまり、同時代にどのように動いていたのかが分らなくなったと反省している。

このため、次回からは約80回の連載を圧縮し、わが国のJMHC活動全体がどう進んできたのかをまとめてみたい。さらに、新に判明した事柄も書き加えていくつもりである。それはそれで面倒な作業になるが、各地区の活動などの細部を取り除くことによって、大きな流れが現われてくるのではないかと、著者自身も期待している。

なお、資料がなく苦労したとはいえ、多くの方から少なからぬ会報、写真などをお貸しいただいた。書き尽くしたこれらの資料はその都度お返ししたが、連載が終わるまで残しておきたい物もあり、かれこれ1年半も手元においているものもあり、それが気になってもいた。今回の仕事が終わればその気がかりからも開放されると思うとほっとしている。