[アマ無線の夜明け]

昭和2年(1927年)有坂磐雄(JLYB)さん、楠本哲秀(JLZB)さんに次いで9名に「私設無線電信無線電話実験局」の免許が下りた時、許可されたのは38mバンドであった。翌年10月19日、全国のコールエリアが定められ、プリフィックスが決められるとともに、周波数も1.7,3.5,7,14,28,56MHzに拡大された。戦前「私設・・実験局」と呼ばれていたのは現在のアマチュア無線局であり、以後はアマチュア無線局を使用する。

しかし、実際に使われたのは3.5と7MHzであり、昭和5年(1930年)ころでも28MHzの電波を出していたのはアマチュア無線局約70局のうち2局のみだったという記録がある。ましてはVHF帯の56MHzの利用は遅く、昭和6年(1931年)から昭和7年(1932年)になってからであった。56MHzを実験したのは関西のハムが多く、東京では学習院のハムグループが活発だった。

[軍用に使われた56MHz]

アマチュア無線は戦時色が強まった昭和15年(1940年)秋ころから免許が停止され、昭和16年(1941年)12月の開戦とともに停止される。しかし、皮肉なことに電池電源の56MHzポータブル機の自作をしたハムが現われたのはこのころであり、同時に軍用通信機として56MHz機の生産に多くのハムが駆り出され、JARLの組織として、あるいは数人のグループとして協力させられている。

開戦を前にアマチュア無線は規制されたが、逓信省無線課は軍が協力を要請した場合に限って、規制を緩和する方針を採った。このため、わずかではあるが終戦近くまで交信を認められていたハムもいた。また、逓信省は軍に役立つ要望をJARLに求めている。それにもとづきJARLは米国では認められている112MHz、224MHzの開放を要望したが認められなかったいきさつもあった。

戦前、個人で56MHz無線機を自作したハムには、武田正信(J3DC)櫻井一郎(J3FZ)小田壮六(J6CX)森村喬(J2KJ)渡辺泰一(J1FV)柴田俊生(J2OS)さんらがいた。一方、仲間を集めて組み立てたハムもいた。昭和12年(1937年)蘆溝橋事件が起こり日中戦争が始まったが、同時にこの年には戦時を想定して発足していた「愛国無線通信隊」が「国防無線隊」に改称されている。

柴田さんの自作した56MHz送信機--- アマチュア無線のあゆみより

[国防無線隊]

その「国防無線隊」のメンバーのうち、梶井謙一(J3CC)多田正信(J1DP)中川国之助(J1EE)大河内正陽(J1FP)渡辺泰一、森村喬、小川董一(J2LO)安川七郎(J2HR)さんらは中川さん宅に集り、送受信機2台ずつを組み立てて、通話実験を繰り返した。

これに対して、軍司令部から要請を受けて量産したのが当時のJARLであった。現在のJARL会長の原昌三(JA1AN)さんは、当時学生であったため駆り出されて東京・渋谷にあった山田電機の部屋を借りて、せっせと作った。「交通費も部品代もすべて自費、何100台と組み立てた」と言う。

もちろん、軍は当時の通信機メーカーに大量の通信機を発注した。軍用通信機には1.7MHzから20MHz程度の広帯域機が多かったようだが、航空機搭載用に30MHz~50MHz通信機も開発された。海軍航空技術廠で航空無線機を開発していた有坂磐雄(JLYV)さんなどが貢献している。

[戦後のVHF]

戦後、JARLは驚くべき早さで再建された。禁止されていた短波の受信も自由化されたが、アマチュア無線の再開は遅く昭和27年(1952年)になってからであった。再開されたアマチュア無線に許された周波数は3.5MHzから10GHzまでの多バンドであったが、第1回の予備免許を受けたハム30名の内、50MHz申請は7名、144MHz以上はいなかった。

戦後いち早く50MHz機を自作した原昌三さんによると「関東地区で50MHzの電波を出していたのは黒川瞭(JA1AG)さん、稲葉全彦(JA1AI)さん、山中一郎(JA1AK)さん、竹沢通夫(JA1AL)さんらだけだった」と言う。このため、JARLは昭和28年(1953年)5月から始めたQSOパーティに、50MHz、144MHzのクラスを設けている。さらに、7月にはVHFコンテストを実施しており、21局が参加した。

原昌三・現JARL会長

[50MHzブーム]

ところが、昭和30年(1955年)前後、50MHzによる長距離交信が一挙に実現する。当初は国内の長距離交信、さらに31年(1956年)になるとオーストラリア、アルゼンチンなどとの交信が出来始めた。太陽の活動が活発化、電離層での反射による長距離通信が可能となった。「サイクル19」と呼ばれた現象であった。この動きは50MHzDXerの誕生につながっていく。同時にこの動きはモービルハムの遠因にもなっていく。

車に無線機を載せた最初は誰であったかという特定は難しい。本格的に車に載せて走りまわったことで現在分っているのは西では神戸の桑垣敬介(JA3RF)さん、東では東京の石川源光(JA1YF)さんである。桑垣さんは最初は7MHz機を搭載、しかし「50MHzでなければだめ」と、昭和32年(1957年)に50MHz機で検査を受ける。石川さんが50MHz機を積んで免許をもらったのも同じ年であった。