[乗用車の普及]

桑垣さん、柴田さんらが車に無線機を載せたころ、各地でも同じようなことに挑戦したハムが出始めていた。ハンディ機の無かった当時、車に無線機を積んでどこからでも交信ができることは全ハムの夢であったからである。昭和30年(1955年)過ぎにはそのための好条件が揃った。50MHzが着目されたことはすでに触れたが、昭和30年は移動局が認められた年でもあった。

桑垣さんはリグを積んで日本を駆け巡った。--- アマチュア無線のあゆみより

さらに、車がぼつぼつ普及し始めたのである。戦後、日本経済は崩壊し「2000万人が餓死するのでは」という見方もあったほどである。それを救ったのが昭和25年(1950年)に勃発した「朝鮮戦争」であった。米国を中心とした国連軍は隣国の日本に大量の軍需物資を発注した。戦後、予想以上に早く日本経済が復興した最大の理由といわれている。その結果、個人で車を所有する余裕も出始めたのが昭和30年代であった。

昭和35年(1960年)時点の主な耐久消費財の世帯普及率を内閣府の調査で調べてみると、電気洗濯機が40%、電気冷蔵庫が10%、電気掃除機が8%程度、乗用車はまだ統計がないものの1%以下と推定される。昭和40年(1965年)には10%に達しており、裕福な世帯には車を持つのが夢ではなくなった。

[米軍の放出品]

そのころアマチュア無線局はどの程度あったのか。昭和30年が3322局、昭和40年が38438局であり、約10倍に増えている。趣味のなかでも高尚な「キング・オブ・ホビー」の時代であったことが分る。数少ない車の所有者で数少ないハムがモービルハムになると「ステータス」なのは当然であった。

このような経済的な余裕とは別に「かっこ良さ」もモービルハムを増やす要因となった。米国のテレビ映画「ハイウェィパトロール」は、わが国では昭和31年(1956年)ころからNHKで放送された。米国の高速道路を警らする警察官の日常を追った物語であるが、パトカーに長いアンテナを立て窓から無線機のマイクを取り出して交信する姿が若者にはあこがれのシーンとなった。

しかし、アマチュア無線機は自作の時代であり、車載機は技術力のあるハムは自作し自信のないハムは仲間に製作を依頼した。昭和30年「朝鮮戦争」が休戦となり、しばらくすると米軍が徐々に本国に引き上げ、それとともに軍用車に積まれていた軍用無線機がジャンク市場に出回りだす。モービルハムは競って求めだした。周波数を改造して適法化を図るとともに、出力不足はブースターを付けて補った。

[MHCの発足]

このように、昭和30年代初頭にはモービルハムの条件が整った時代といえる。これらのモービルハムが初めて組織化されたのが昭和34年(1959年)10月の東京であった。呼びかけたのは石川源光(JA1YF)さん、柴田俊生さん、村井洪(JA1AC)さんであった。当初の名称はMHC(モービルハムクラブ)であり、約20名の集りであった。

東京のモービルハムの「遠乗り会」

MHCの活動はもっぱら「遠乗り会」やミーティングであったが、地域を限定しなかったため、横浜居住の会員も増えていった。手元にある昭和36年(1961年)の会員名簿では44名であり、この年に名称をJMHC(日本モービルハムクラブ)に変更するとともに、会長に山田豊雄(JA1DWI)さんが就任する。その翌年3月の会員数は47名だった。名称の変更は、全国的な組織を視野に入れたためと思われる。

東京に次いで組織が生まれたのが大阪であった。大阪では昭和33年11月に日赤大阪府支部の固定局と、一部のハムグループの車に積んだ無線機との交信実験が行われ、これをきっかけにOEC(大阪府アマチュア非常無線クラブ)が発足している。このクラブはしばしばマスコミに取り上げられたため、アマチュア無線に対する関心が高まり、藤田晃(JA3AD)らによる「ハム大学」が開校される。

[東京との関係]

昭和37年(1962年)OEMのメンバーでもあった葭谷裕治(JA3IG)さんが偶然なことで東京のJMHC東京を知ることになる。5月、神戸の六甲山に来ていたJMHC東京のメンバーと、桑垣敬介さんが交信しているのを聞いたのである。東京からは園田直行(JA1AEW)さんら6名が桑垣さんを訪ねた時である。

38年(1963年)3月になると東京から山田豊雄会長、藤田進(JA1EQI)さんが大阪を尋ねて、寺田薫(JA3AMQ)さんらに「JMHC大阪支部を立ち上げて一緒にやろう」と提案する。それに対して寺田さんは「近く発足させるつもりである」と答えたとの記録が東京側に残っている。

このOECが母体となってこの年に発足したのが「JMHC関西支部」であり、会長に寺田薫さん、会計担当に葭谷裕治が就任する。大阪では「関西支部」東京では「大阪支部」と認識がやや異なっていた。発足した「関西支部」は、東京と異なり日赤、大阪市などの地方自治体、大阪府警との連携を深めた非常時の無線による支援グループの色合いが強かった。ただし、米軍放出の通信機を車に積み込んだのは同じであり、寺田さんはその指導にあたった。

大阪城公園で行われたOECの発足式(昭和40年)

「JMHC関西支部」の寺田薫会長らはこの年の8月に「JMHC東京」を訪ねる。訪問の目的ははっきりしないが、長距離のドライブとモービル交信を楽しむ他、あるいは山田会長への返事を持っていったとも考えられる。その返事は「東京とは一緒にやらない。関西は独自にやる」というものであった。

このため「JMHC関西」のメンバーは、初期のころの全国大会に参加したりしたものの、その後の参加はほとんどなく、さらに、しばらく後に発行された全国のモービルハムのコールサインブックにも掲載されなかった。関西からはリストが提供されなかったためであり、このため「東京と関西が喧嘩別れした」との憶測が生まれた。

寺田さんは「別に意見の相違ではなく、東京の傘下に入りたくないという単純な理由だった」と言う。東京の当時の会長であった山田さんも「複雑な問題があったわけではなかった」という。今、思うとこの当時モービルハムのしっかりした組織ができあがっていたのは東京、関西のみであり、相互に連携を図る必要性が全くなかったといえそうだ。