[各地で続々結成]

はっきりした記録は残っていないが、全国各地でも昭和30年代(1955年~1964年)半ばには、車に無線機を載せて交信していたモービルハムが少なからずいたといわれている。そのハム達の組織ができ始めたのが昭和40年代初頭であった。組織づくりを積極的に進めたのが東京の柴田さんであった。

柴田さんは3人で「JMHC」を発足させ会長を務めていたが、会長を山田さんに譲ってしばらくしてから、車で各地を訪問し組織づくりを訴えた。もっとも積極的だったのは昭和40年(1965年)から翌年にかけてであった。都市を結ぶ高速道路は昭和39年(1964年)に名神高速道路ができたばかりであり、柴田さんの“勧誘行”は一般道を走っての旅であった。

JMHC東海が日赤愛知県支部で行った抽選会

[全国大会]

もっとも、柴田さん自身はその旅を楽しんだもようでもあった。ただし、柴田さんが足を運んだのは東京以西であり、以東の地域では「柴田さんが来ました」という話題は聞けない。また「JMHC東京」の当時のメンバーのほとんどは仕事をもっており、柴田さんの手助けはできなかった。このため、山田さんも横瀬さんも「全国組織づくりは柴田さんが一人でおやりになっていたため、詳しいことはわからなかった」と言う。

昭和41年(1966年)8月、愛知県蒲郡の「ふきぬき」で最初の全国大会が開かれた。まだ、各地に正式なJMHC組織はできていなかったが「JMHC各支部合同ミーティング」と名付けられた集りであった。柴田さんはこれをきっかけに全国組織を立ち上げようと計画したといえそうだ。関西から30名、関東19名、東海16名、北陸、中国、九州からの参加もあり総勢81名の集りであった。

[JMHC東海/静岡]

この最初の会合で決められたことは、各地のモービルハムの組織名を「JMHC×××」とするということと、統一周波数を51MHzにする、ことであった。会合の成果は表われ、この年に「JMHC東海」と「JMHC静岡」が誕生する。さらに「JMHC岡山」もこの年に生まれたと推定できる。「JMHC東海」は大会のすぐ後の9月に発足し、三品尋郁(JA2CRG)さんが会長、森一雄(JA2ZP)さんが副会長になった。

静岡では昭和39年(1964年)にSMRA(静岡モービル・ラジオ・アマチュア・アソシエーション)を発足させて、岡本禎夫(JA2BZK)さんが会長となり、昭和41年(1966年)に「JMHC静岡」に名称を変えている。静岡は関東に隣接しているばかりでなく「JMHC東京」と「JMHC関西」が交流のあったころに、両クラブのメンバーが立ち寄ったこともあり、早くからJMHCの情報を多くもっていた。

[JMHC岡山/北陸]

岡山でもモービルハムの仲間が「OMHC(岡山モービルハムクラブ)」を結成、尾崎務(JA4CN)さんが中心となって活躍していた。半年後に「JMHC岡山」に名称変更し、武鑓久治(JA4RE)さんが会長に就任する。武鑓さんはその時期を昭和40年(1965年)ころというが、「全国共通の名称を付けて欲しい、という要請があった」と記憶しており、それから察すると昭和41年の大会の後といえそうだ。

JMHC岡山も日赤と深い結びつきとなった

昭和42年(1967年)6月に熱海の「来宮ホテル」で「JMHC全国役員会」が開催された。全国組織に向けての準備が目的だった。出席したのは東京、静岡、東海、岡山、そして北陸であった。北陸では戦前のハムでもあった古田柘太郎(JA9SM)さんが中心となり、この年に「JMHC北陸」を結成している。ほぼ同時に傘下に冨山、石川、福井、能登の各クラブができた。

[JMHC熊本/京都/長野]

この結果、8月に静岡市の「日本平ホテル」で開かれた2回目の「全国大会」には東京、関西、東海、北陸、岡山、岡崎、静岡が参加し同伴家族含め114名が集った。大会には参加しなかったものの、この42年に発足したのが「JMHC熊本」と「JMHC京都」であった。熊本では原田隆治(JA6GNI)さんが前年に柴田さんから依頼を受けていたが、1月に設立して会長となった。

原田さんのJMHCでの活躍については後に触れることになる。九州では「JMHC北九州」の発足が早かった可能性があるが、それを証明する資料は無い。北九州の小野真佐彦(JA6LG)さんは、昭和33年に年収の3年分を払って車を購入してモービルハムになっている。やはり、柴田さんに勧められて「JMHC北九州」を立ち上げており、その時期は昭和41年(1966年)か42年(1967年)と推定される。

京都では久貝好男(JA3MZP)さんが中心となって設立した。昭和41年(1966年)の大会に「JMHC関西」のメンバーとともに出席した久貝さんは「免許をもっていない参加者はわずかだった」と、慌てて免許を取り、大阪のメンバーの力を借りて「JMHC京都」を発足させている。モービルハムになるために免許を取った一人であった。

「JMHC長野」の場合も設立時期ははっきりしていないが、事務・会計担当となった茅野勝義(JA0DLC)が昭和42年に免許を取ってほどなくして、発足したらしいことを考えるとこのころの設立である。「JMHC長野」の場合はその70%が諏訪湖周辺のハムで占められていることで特別だった。昭和47年(1972年)のモービルハムコールブックによると、実に全国の1.5%が諏訪湖周辺のメンバーで占められたほどである。

JMHC長野は昭和46年の全国大会に280名を集めた

ここには、功刀武一(JA0OH)さんがおり、熱心にモービルハムの指導をし、初代会長となった。51MHzに割り込んでくるメンバー以外のハムがいると「この周波数はJMHC長野の会員専用である」と譲らなかったなど個性の強いハムであった。それだけに他地区に見られない「モービルハム大国」を作り上げたといえる。また、全国大会には積極的に参加した人でもあった。