各地区のJMHCの設立の経緯を調べていくと、昭和43年(1968年)ころから様相が変ってくる。これまでは東京の柴田さんが各地を督励して回っていたが、その後は各地域で自発的にJMHCが誕生していく。すでにJMHCの存在が全国に知れ渡り、柴田さんが訪ねて依頼する必要がなくなってもいた。

[JMHC広島/長崎]

昭和43年(1968年)3月「JMHC広島」が誕生する。隣の岡山では「JMHC岡山」が活動を初めていた。初代会長となった藤川正克(JA4RZ)さんらは「無線の効率的な運用を図り、車の事故防止対策を考えるために組織を作ろう」と計画。しばらくすると東京と連絡が取れ「JMHC広島」を立ち上げる。

JMHC広島が行ったフォックスハンティング

「JMHC長崎」の発足は同じ年の9月であった。長崎市では「JARL長崎クラブ」のメンバーの一部が「長崎モービルハムクラブ」を結成していたが、熊本の原田さんの勧めて「JMHC長崎」に改称。一方、島原でも吉村信義(JA6AKR)さんが原田さんの話を聞き「JMHC島原」を結成していた。

吉村さんは、諫早にあった松本晃(JA6EK)さん中心の「モービルハム諫早グループ」と合流した後に、長崎と一体化し「JMHC長崎」ができたいきさつがある。ここでも原田さんが陰に陽に支援しており、また、結成までの関係者のキメ細かい準備が目立っている。松本さんが初代の会長に選ばれている。

[JMHC最盛期]

昭和44年(1969年)から46年(1970年)にかけては各地でJMHCの発足が相次いだ。昭和30年(1955年)から始まったわが国の「高度経済成長」は、大阪で万博が開かれた昭和45年(1970年)ころまでの期間を指しているが、その影響がモービルハムの世界にまで表われたといえる。電波法が改正されて、昭和40年(1965年)に「養成課程講習会」制度がスタートし、アマチュア無線免許の取得が容易になった。

加えて、車の世帯普及率は45年には20%を超え、一般サラリーマンでも買えるような時代になっていた。このため、昭和47年(1972年)にはJMHCを結成できる地域での発足はほぼ完了している。また、既存のJMHC組織では会員の増加が続いており、全国的に見ると、JMHC活動はピークに達した時期といえる。

福岡では、高本義孝(JA6GO)さんら3人が中心となって「モービルハムクラブ」を結成したことがはっきりしているが、その時期、さらに「JMHC福岡」に変えた時期もはっきりしていない。初代代表となった師村定信(JA6FIC)さんによると、結成式も無く、会報の発行も、会費の徴収も無かったもようであり、それが発足時期を不明にしている。しかし、昭和44年(1969年)に発行された「モービルハムコールブツク」に90名のリストが掲載されていることからみて、この年以前に設立されたといえる。

仙台では昭和44年にSMHC(仙台モービルハムクラブ)が発足され、初代会長に上杉功(JA7BGW)さんが選ばれる。しかし、その後最後まで「JMHC」を名乗ることは無かった。しばらく後に隣の山形県からは「JMHC山形を結成した」という情報が入ったものの「JARLの他にも会費を取られるのは困る」と加わらなかった。さらに、東京からは何の勧誘もなかったと言う。

JMHC九州連合を立ち上げた熊本の原田さん(右)

[JMHC岐阜/佐賀]

岐阜では昭和43年(1968年)に児島保(JA2NSF)さんらが「50MHzAMモービルクラブ」を発足させ、翌年6月に「GMHC(岐阜モービルハムクラブ)」に名称を変え、さらに翌昭和45年(1970年)1月に「JMHC岐阜」に変えている。活発に活動している隣の「JMHC東海」の森一夫会長などに相談しての発足であり、初代会長には鈴木幸重(JA2HJ)さんが選ばれている。

昭和45年8月に行われたJMHC岐阜の初総会

同じ年か翌年に発足されたのが「JMHC佐賀」であった。この地域も経緯を示す資料が見当たらない。再三登場する熊本の原田さんが九州各県に設立を呼びかけており、佐賀でも昭和47年(1972年)に「JMHC九州連合大会」が開かれている。同大会を開催するためには“受け皿”が必要であり、それ以前に設立されたと推定され、発足が昭和45年、46年の根拠となっている。

しかし、組織は早くも昭和48年(1973年)には自然消滅状態になり、九州他県の組織が「佐賀の組織をテコ入れしよう」と話し合っている。大会を実施するために急ぎ作り上げた組織が固まっていなかったことが理由とも思われるが、昭和54年(1979年)に再建される。一度消滅した組織を再建したケースとして注目される。

[JMHC三重/群馬]

昭和45年(1970年)に三重県に「MMHC(三重モービルハムクラブ)」が誕生する。既存の「2m(144MHz)同好会」が母体となり設立され、会長に小津昌平(JA2KNV)さんが就任した。翌年4月に「JMHC三重」に名称変更され、初代会長に伊藤明生(JA2ANJ)さんが選ばれている。

同じ昭和46年(1971年)に誕生したのが群馬であるが、その中心となったのが館林市だった。同市には時期がはっきりしないが「館林2メータークラブ」があり、大亀昭夫(JA1FMR)さん、関口伊佐夫(JR1UVS)さんがが中心になって動いていた。「JMHC群馬」の発足は昭和46年の終わりごろと推定されている。長野県と同様に会員の70%が館林周辺であることが注目された組織であった。

[JMHC山形]

「JMHC山形」の誕生は昭和47年(1972年)11月である。その後、全国大会の開催誘致で積極的となった山形ではあるが、発足は遅かった。理由は東北地区への組織化の働きかけが無かったためと思われる。設立時の会長は久合田利夫(JA7KRD)さん、事務局長に鈴木利夫(JA7MPT)が選ばれている。