[不可思議な事態]

昭和55年(1979年)の全国大会は群馬・館林で開かれたが、その時の代表者会議で「事務局は来年度から東京に移す」と決議された。ただし、東京には当時複数クラブがあり具体的なクラブ名までは決められなかった。唐突ではあるが、その理由までは記録に残っていない。いずれにしても大亀さんは精力的に「JMHC群馬」で活動し、全国組織づくりにも奔走した。しかも、柴田副会長と連絡をとりながらの活動であった。

館林で発行された「JMHC全国連合会ニュース」の第3号

大亀さんのことを長々と書いたが、JMHCの歴史の上で不可思議なことの代表例だからである。さらに、翌年、岐阜・長良川で行われた全国大会までの間に何事かが発生したらしい。「JMHC岐阜」は大会のために組織をあげて準備し、大会そのものは立派に行われた。しかし、パンフレットには「つかみどころのない1年だった」と全国の模様を描写。

さらに「前回以降発生した種々の問題を解決し、さらに団結・発展しなければならない課題を抱えている」と書かれており、「JMHC全国組織立て直しの大会」と呼ばれたという。事実、この大会で柴田副会長が会長に就任している。「JMHC群馬」の会員も地元でありながら「大亀さんのやられていたことはほとんど知らされなかった」という。

「モービルハム」の編集長の川合さんも「ニュースの発行にしても実際は全体に影響するような活動ではなかった」といい、会長職にあった森さんは「付かず離れずにやっていた」と語る。関係者にいろいろ伺い、マイナスイメージの話しが聞けたが事実確認ができないため一連の動きが書けないままにある。ただ「全国組織を何とかしなければ」と立ちあがった大亀さんの当初の純粋な気持ちだけは事実であった、とだけに止めておきたい。

[引き続き活発な地域]

多くのJMHC組織が消えていった中で、引き続き組織が維持され、活動も盛んな地域もある。九州のいくつかのJMHCが集っている「JMHC九州連合」であり「JMHC岐阜」などがそれに当たる。「JMHC九州連合」は中心である熊本が日赤と結びついた活動を続け、「JMHC岐阜」は会員同士の日常生活の上でのつながりが組織を維持している。

JMHCとしての組織が無くなったとはいえ、小人数が集って活動しているケースは少なくない。日赤を支援する体制が出来上がった地域がそうであり、技術面の研究を続けているグループもある。後者は「JMHC北九州」である。より高い周波数を使用して海外との画像伝送まで手がけている。同様な試みを続けているJMHC組織はいくつかある。

["はやり"だった]

JMHC発足の時期は地域によって異なったが、10年以上も組織が維持されたところはほとんどなかった。これについて、川合さんは「はやり(流行)だったとしか言いようがない」という。川合さんは「モービルハムにあこがれてJMHC東京に加入すると時、会員の推薦が必要だった。それほどのステータスだった。わずかな期間に消えたのは、皆さん飽きたため」と分析する。

川合さんが発行した雑誌「モービルハム」の発行部数は最盛時に3万部になった。何度か発行したコールブックは「車のメーカーも広告を出してくれたために、無料で発行できた」と当時を語る。雑誌は苦しいなかでも発行を続けてきたが、ついに平成12年(2000年)に廃刊した。このころはアマチュア無線機需要がピークを過ぎており「メーカー数も減少し、発行が難しくなっていた」と理由を話す。

[東京オールド]

もっとも早くJMHC組織を立ち上げた東京はどうだったのか。東京では「MHC」が「JMHC」となったが、その中心メンバーにはベテランハム2文字コールが多かったため、さらに昭和46年(1971年)ころ「JMHC東京オールド」に名称を変えた。この結果、東京は「東京オールド」のほか「東京・大井町」「西東京」に分かれた。

しばらくは「JMHC東京オールド」として全国大会などに参加してきたが、平成4年(1992年)名称を「東京オールド」と改め、JMHC全国大会などへの出席は、個人としての資格とすることを決めている。現在は「年に一度、ワインのボジョーレヌーボウが発売された翌日に箱根のホテルに集り、旧交を暖める」楽しみの組織に変っている。

昨年(2005年)の集りは10月27日に箱根・強羅のホテル出開かれ、14名のメンバーが集った。この1年間に亡くなられた阿部英亮(JA1PK)さんの冥福を祈る黙祷をし、山田会長が挨拶。しばらく欠席であった東光クラブの園田直行(JA1AEW)さんが近況報告をした。いずれにしても、柴田さんらが属し、JMHCの原点で全国の中心となるべき東京の組織も完全に変身してしまったことになる。

[歴史に"もしも"があっても]

今年、第40回を迎えた全国大会であるが、実は東京、大阪では一度も開かれていない。大阪は最初から全国とのつながりを裁ち切っており理由がある。が、東京で未開催なのはどうしてなのか。横瀬さんは言う。「東京での開催が話題になったことはあるが、その都度”東京ではできないよな”と、簡単に否定されてしまった」らしい。理由ははっきりしないが、川合さんは「大都市では会員の考えが一つにまとまらないため」と言う。

仮に「JMHC東京」が強いリーダーシップをもち、全国組織を整然と作り上げていたらどうなったのか。歴史に”もしも”は意味がないが、結果は同じであったろうと思われる。その理由は、これまで伝えてきたことで分ってもらえると思う。全国のモービルハムがあれほどまでに熱中し、精魂を傾けたJMHC組織が自然消滅する姿こそ歴史そのものであろう。

平成17年10月に開かれた「東京オールド」の集り。前列右から3人目が山田さん、左端が川合さん、後列左端が横瀬さん

戦前、戦後を通じてVHF機の自作にかかわり、JMHC組織づくりに奔走した柴田さんは平成3年1月16日に亡くなられた。横瀬さんは柴田さんが入院して以来、長期にわたり健康状態を「東京オールド」の会員に報告し続けた。翌年4月5日にはJARL大井町クラブは柴田さんの一周忌を催した。なお、参加者は激減したものの、来年の全国大会は岡山県で開催されることが決まっている。