4)ラジオの重要特許を同業メーカーに無償公開した松下幸之助さん

“エレクトロニクス立国日本”の歩みそのものの幸之助さんの人生
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松下幸之助さん。当時は松下電器製作所社主と呼ばれていた

松下電器の創業者であり同社を世界トップクラスのエレクトロニクスメーカーに育て上げた松下幸之助さんの人生は、まさに“エレクトロニクス立国日本”の歩みそのものと言っても過言でない。

松下幸之助さんの生い立ちから、松下電器の創業、そして幾多の経営難を乗り切って、世界トップクラスの企業へと躍進。「経営の神様」とまで言わしめた経営手腕は、様々な本やテレビ番組などで幾度となく紹介されているので、ここではあえて取り上げない。

他の経営者には無い何かを持ち合わせている幸之助さん
経営者として優れた資質があり、自ら創業した企業を1代で大企業に育てあげた経営者はたくさんいる。もちろん幸之助さんもその一人ではあるが、他の経営者には無い何かを持ち合わせていると感じさせるのである。

それは、1企業の成長という狭い領域にとどまらず、日本という国の発展、そして世界人類の幸福といった、ともすれば思想家、宗教家のような、人や社会の幸せ、そんな領域まで踏み込んだ経営哲学を持っていたからだろう。

その幸之助さんの哲学は、松下電器産業の経営にも反映されているが、それを実現したのが出版を通じて人々を幸せにする目的の「PHP研究所」日本の政治の貧困を改革するために創設した「松下政経塾」さらには地域電気店の後継者を教育する「松下幸之助商学院」などの事業である。

「PHP研究所」は、人類の幸せを雑誌や書籍を通して実現しようとしている事業。「松下政経塾」は有能な若者が政治に参加することにより、国を改革するのが目的。すでに、衆議院28名、参議院2名、知事2名のほか、都道府県議員、市町村議員を多数輩出している。

「松下幸之助商学院」は、家電店の後継者に約1年間の全寮教育を施し、経営に必要な技術、経理などの他、大学、論語など東洋古典までを習得する場。民間企業の教育施設として世界には他にないだろうと言われている。

「第2のマルコーニ」といわれた安藤さん
そんな幸之助さんの経営思想を端的に表した出来事がある。それは、「ラジオの重要特許を同業メーカーに無償で公開した」ことである。実は、この時期にラジオの重要部分の特許をある発明家が所有しており、高周波回路で多極管を使用するラジオは、この特許に抵触するために、ラジオの設計の上で大きな障害となっていた。

その発明家とは、「第2のマルコーニ」といわれ、日本の無線通信技術の向上に大きく貢献した安藤博さんだった。安藤さんは、明治35年(1902年)、滋賀県の膳所に生まれ、大正9年(1920年)に明治学院中学部を卒業、早稲田大学理工学部予科に入学、大正14年に同学部を卒業した。安藤研究所を設立するとともに、「無線電話」「実用無線電話」の著書も出版している。

安藤さんは、幼少の頃から研究開発を続け「少年発明家」といわれていた。大正8年には多極真空管を、11年にはニュートロダインをそれぞれ発明し、特許を取得するなど生涯の特許保有件数は数千件ともいわれている。また、日本放送協会の前身である東京放送局の設立発起人の1人でもあり、大正10年に早くもテレビジョンの研究を始めていた。

私財で安藤さんから特許を買い取り業界に無償で公開
昭和6年頃、その安藤さんとラジオメーカーとの間で多極真空管の特許使用についての係争事件が起きた。現在のように特許について厳密な時代と違い、ラジオ業界は安藤さんの特許権主張に反発していた。それを収拾したのが幸之助さんで、私財で安藤さんから特許を買い取り、ラジオ業界に無償で公開したのである。「ラジオ受信機の普及のため」を考えた幸之助さんらしい行動だった。

大正14年に開始されたラジオ放送は、不況期にもかかわらず急速に普及し始め、所有世帯は昭和5年に早くも70万に及んでいた。しかし、当時のラジオは鉱石式や電池式から交流電源方式に切り換えられたばかりで、機能的に完全なものが少なく、聴取者は故障に悩まされていた。

「故障の起こらないラジオ」をつくろうと決意
幸之助さんもたまたま聞きたい放送がラジオの故障で聞けなかったことに憤りを感じ、「故障の起こらないラジオ」をつくろうと決意した。昭和5年8月、あるラジオメーカーと提携して、子会社・国道電機を設立し、ラジオの生産販売を開始した。ところが、故障返品が続出した。ラジオの専門店でしか扱えない製品だったのである。

幸之助さんは「専門店だけでなく、広く一般の電器店が扱えるラジオをつくってこそ意味がある」と考え、昭和6年3月、思い切って国道電機を松下電器の直営にし、研究部の中尾哲二郎氏に改めて故障の起こらないラジオをつくるように指示した。

東京放送局のラジオセットコンクールに応募、1等に当選
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松下電器が開発した3球ラジオ

苦心の末、3ヵ月後に3球式ラジオが完成した。折しも募集中の東京放送局のラジオセットコンクールに応募したところ、これが1等に当選、松下電器は一躍ラジオ業界にその名を知られるにようになった。

松下電器は、東京放送局のラジオセットコンクールで1等に当選した3球式ラジオを、新型のキャビネットに組み込んで発売した。ところが、当時は競争の激化で、ダンピングが横行し、ラジオの価格は25円から30円と不当に乱売されていた。

共存共栄、業界の真の発展を目指す
幸之助さんは「適正利潤を確保するのが事業の正しいあり方である」との信念から45円で売り出した。各代理店から、高すぎるとの声が出たが、幸之助さんは「適正な価格で販売してこそ、メーカーと代理店の共存共栄、業界の真の発展がある」と訴え、多くの代理店の賛同を得た。

特許を独占せずライバルメーカーにも無償で公開した訳
そのようなメーカー間の競争が激しい時代ゆえに、特許を独占すれば他メーカーに対して優位に戦え、大きな利益を得ることができたはずである。しかし、自分が買い取った特許をライバルメーカーにも無償で公開したところに「性能が良く、壊れないラジオをより多くの国民に使ってもらいたい」という幸之助さんの考えが読みとれる。

こうした幸之助の考え方がいつ培われたのだろうか。それは、昭和7年春、幸之助さんは某氏に連れられて、とある宗教団体の本部を訪れていた。広大な敷地を順に案内されるうち、二人は製材所にたどり着いた。

作業をする信者の人たちの喜びに満ちた顔に心を打たれる
そこで見たのは、全国の信者から献じられた木を使って、教祖殿などの建築を進めている風景だった。不況のど真ん中というのに、信者から献木が山のようにやってくる。奉仕によって作業は進められているというのに、作業をする信者の人たちの顔は喜びに満ちている。この様子を見て、幸之助さんは心を打たれた。

帰宅して後も考え続ける幸之助さんの頭に、いつしか一つの諺が浮かんでいた。「四百四病の病より貧ほどつらいものはない」・・・人間の幸せにとって精神的安定と物質の豊かさは車の両輪のような存在である。となれば、“貧”を除き“富”をつくるわれわれの仕事は、人生至高の尊き聖業と言えるのではないか、というものだった。

生産につぐ生産で貧を無くす営みこそ尊き使命
それが「正義の経営、経営の正義」という考え方になっていく。「そうや!生産につぐ生産で貧を無くす営みこそ、われわれの尊き使命やったんや!ああ、わしはそんなことも知らんかったんや」と幸之助さんは、思わず叫んだと言う。この考えは後の有名な「水道哲学」思想につながっていき、そして「PHP研究所」「松下政経塾」設立となっていく。

幸之助さんは、自己にとらわれた経営、単なる商道としての経営の殻を破らねばならない使命を自覚すべきだったのだと悟った。初めて自らの事業の真の使命に目覚めた幸之助さんは「ひとり、震えるような感激を覚えていた」と社史は記している。

事業の使命を悟った「命知」がもたらしたもの
明治27年11月27日、和歌山に生まれた一人の男が自分の事業の使命は何なのだろうか。それを悟った瞬間、これを「命知」と呼び、以後の経営に反映させている。そして「ラジオの重要特許を同業メーカーに無償で公開する」といった行動も「命知」からきた使命感によるものに他ならない。

“エレクトロニクス立国日本”の源流であり、日本を世界に冠たるエレクトロニクス立国国家、ハイテク国家に育て上げた人物の一人が幸之助さんといえるだろう。そしてまた彼の後継者達がその遺志と技術を継いで次なるステップへと飛躍すべく努力しているのである。

『参考文献』 週刊BEACON(アイコムホームページ)、 松下電器歴史館 (松下電器ホームページ)、 松下幸之助物語 (松下電器ホームページ)