6)VHS対ベータの家庭用VTR規格統一戦争(後編)

「エレクトロニクス立国日本」を育て上げた様々な技術を生み出す
VHS対ベータの家庭用VTRの戦いは、最終的にVHSの勝利に終わったが、エレクトロニクス技術は猛烈なスピードで進歩しており、HDD内蔵DVDレコーダーの台頭でVHS時代は早くも終わりを迎えようとしている。しかし、1975年5月のベータマックス1号機の発売から、2002年8月のベータマックス生産終了宣言まで続いた27年間にも及ぶ激しい戦いの中で画像処理技術、メタルテープなど磁気記録技術、また小型・軽量化を実現するための高密度実装技術をはじめ、今日の「エレクトロニクス立国日本」を育て上げた様々な基礎的な技術を生み出した。そして規格統一という難しい問題でソニーが得た教訓も大きかった。

家庭用VTRとしてカセット式の開発は不可欠だった
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ソニーが行ったベータマックス第1号機の発表会場

そこでベータマックス、VHS誕生とその後の技術的な進化の歩みを振り返ってみたい。まずソニーのベータマックス開発までの歩みを見てみよう。ソニーでは1964年に木原信敏主任研究員たちは世界初のオープンリールタイプの家庭用白黒VTR「CV-2000」を開発していた。回転ヘッドを採用し、価格は放送局用の100分の1以下、業務用の10分の1以下というものだった。家庭用VTRの開発は無理だという業界の常識を打ち破り、世間をあっと言わせた。

しかし当時はまだ家庭用としてではなく業務用途として売れていた。やがて販売側から「白黒でなく、カラーにしてほしい」、「VTRテープもオーディオのようにカセットにできないか」という要望が強くなってきた。というのも当時、テープレコーダーはカセット式が中心となりつつあり、操作性を良くするためにはVTRもカセット式にする必要があったからだ。

構造が非常に複雑で難題だったカセット化
ソニーでは、家庭用となると誰にでも簡単に操作できるカセット式にしなければならないということは分かってはいたが「VTRの構造は非常に複雑で、カセット化するのが難しい。しかも、同時にカラー化なんて・・・。技術者の苦労というものを知らないなあ」と木原主任研究員はぼやいた。

ソニーの創業者である井深大社長は「カセットのお陰でテープレコーダーは使いやすくなった。なぜVTRもカセット化しないのか」とカセット化を指示した。VTRは回転ヘッドを使うためカセット化には「オートローディング化」が必要となるがこれが難題だった。木原主任研究員率いる開発陣は試行錯誤を繰り返し何とかモノになりそうな原型を作り上げたのが1968年頃だった。

Uローディング方式の開発によりオートローディング化を実現
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「Uローディング方式」の開発によりオートローディングが可能となった

だが、カセット化するには、小さなスペースに収納しなければならずオープンリールに比べてテープを短くしなければならない。テープが短くなっても記録容量を確保するためには高密度記録ができるテープが必要となってくる。研究の結果これを解決するには酸化クロムを塗ったテープが適していることが分かった。このクロムテープが、カセット用に使うテープの問題を解決してくれた。

さらにテープの次は「オートローディング化」である。ソニーの開発陣では、投網(とあみ)式、牧場方式などユニークな名前の方式をはじめさまざまな方法を考えたが、研究に研究を重ねついに開発したのが「Uローディング」方式だった。「Uローディング」方式を採用することでジッターやテープ走行の不安定さが抑えられ安定した画像が得られるようになり実用化に大きく前進した。

沼倉俊彦氏考案のカラーアンダー方式でカラー化を実現
さらにカラー化においては、輝度信号とカラー信号をテープ上の別のトラックに記録する「Y/C分離方式」というカラー記録方式がすでにあったが、新たに沼倉俊彦氏が輝度信号の下側に周波数変換をしたカラー信号を入れ、同じトラックに記録する「カラーアンダー方式」を考案した。この「沼倉特許」は、後のVTRのカラー記録方式の基礎となった。こうして技術者たちは3つの課題を達成し見事にカセット化を成し遂げたのである。

井深社長が文庫本サイズのカセット開発を指示
まずカセットのサイズを決めることになった。井深社長は、「せめてこれくらいの大きさのカセットがいいなあ」と見せたのが毎年、社員に配布する文庫本サイズのソニー手帳だった。文庫本サイズを実現するためには、飛躍的に高密度記録する必要があった。そこで開発されたのが記録トラックの間のガードバンドのない「アジマス記録方式」であり、前編でも触れたベタ書きによりガードバンドが無くても隣の信号を拾わない、いわゆる「ベータ」方式だった。その結果、テープの使用量はなんと「U-マチック」の3分の1以下になった。

1975年にはカラーテレビの普及率が90%を超え生活に欠かせないものとなっていた。井深社長とともにソニーを創業した盛田正明副社長は「ラジオとテープレコーダーの関係のように、カラーテレビと家庭用VTRの関係も築けるに違いない」という確信があった。そして1975年5月10日にベータマックス第1号機「SL-6300」を発売した。価格は22万9800円で、大型カラーテレビとほぼ同じ値段だった。ビデオカセットテープは60分タイプで4500円だった。

ビデオ事業部存続の危機の中で本社に秘密裏に開発されたVHS
一方、VHSの開発はソニーのベータマックスとは対照的だった。日本ビクタービデオ事業部の業務用ビデオ工場である横浜工場で開発が進められた。当時のビデオ事業部は外注部品の精度不足などもあって返品率50%というとんでもない状況だった。そんなこともあって本社から20%の人員削減の指令が出ていた。ビデオ事業から撤退するメーカーも多く、日本ビクターのビデオ事業部も存続の危機に面していた。

そんな状況下にあって新たにビデオ事業部長に任命された高野鎮雄事業部長は、本社には秘密裏に家庭用VTRの開発を進めた。240名の従業員を1人も解雇せずビデオ事業部を再建すると決意、進退をかけての取り組みを開始した。ソニーのベータマックスが井深社長指令の元、多数の技術陣を結集して全社挙げてのプロジェクトであったのに対し、VHSは本社には内緒のプロジェクトとして開発がスタートしたのである。そして、その後の経緯は前編を御覧いただいた通りである。

技術面では常に先行していたベータマックス
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解像度500本以上を実現したEDベータマックス

販売競争といった点では、VHS陣営が上回っていたが、ベータマックスは技術面では決してVHSに劣っておらず、むしろ先行していた。インデックス機能、リニアタイムカウンター、くし型フィルターの採用、Hi-Fi化、Hi-Band化、編集機能などでベータマックスはVHSの一歩先を行っていた。

両者は回転ヘッドを採用していると言うことでは共通するが、ベータマックスは大口径ヘッドドラムにより、毎秒7mの相対速度を得ているが、VHSは毎秒5.8mでダイナミックレンジに差があった。このためホワイトクリップはベータマックス260%、VHSが180%、解像度はベータマックスが240本以上、VHSが230本以上というのがノーマルタイプの基本性能だった。

EDベータ発売で高画質化競争にけりをつける
そして、長時間化競争の結果、音声の劣化へとつながり、何らかの対策が必要となった。そこで開発されたのがHi-Fiビデオだった。その後、VHSはホワイトクリップを200%まで高めたHQ-VHSを発売、解像度はノーマルと同じ230本以上だった。一方、ベータマックスはHi-Bandベータを発売、解像度は270本以上だった。さらにSuper Hi-Bandベータでは解像度は280本以上だった。これに対してVHSはS- VHS (Super- VHS)を発売、解像度400本以上を実現した。解像度で一気に差を付けられたソニーは、解像度500本以上を実現したEDベータを発売、解像度で100本以上差を付けて高画質化競争は一段落する。

販売力、ビデオソフトの差でVHSが勝利をつかむ
高画質化競争で常に一歩先を行くベータマックスにAVマニア達の中には熱烈なベータ信奉者が多かった。ベータマックス、VHSが互角の戦いを繰り広げていた頃はもとより、ベータマックスの発売中止後においてもAV誌などにおいてベータマックス愛好家同士の情報交換などが行なわれていた。技術的には優位だったベータマックスがVHSに敗れた要因として通説となっているのが、販売力の差とビデオソフトの品揃えの差である。

松下電器をはじめVHSファリーでは系列の販売店を総動員して「貸出し訪販」や「合展(合同展示即売会)」を行い、映画ソフトや人気テレビ番組録画ソフト、またアダルトソフトなどを見て体験してもらうことで販売に結び付けていった。また家庭用VTRなど見たことも触ったこともない顧客にとって「貸出し訪販」は威力を発揮した。そしてハードの問題よりもソフトがいかに重要であるかを知らされたのもVTRだった。このソフトの重要さは、その後のパソコンや光ディスクプレーヤーをはじめ、今日の次世代DVDプレーヤーに至るまで延々と続いているのである。

『参考文献』 DVD「陽また昇る」(日本ビクター発売)、日本ビクター創業70周年記念史、Web:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、Web:Sony Japan|Sony History