12)小さな町工場を世界のSONYに育て上げた井深大さん(第1回)

アマチュア無線でも活躍した井深大さん
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町工場を世界のソニーに育てた井深大さん
ソニーの創業者であり、戦後、焼け野原となった東京の小さな町工場からスタートし、世界に冠たる「SONY」に育て上げた井深大(いぶかまさる)さん。その功績は、本連載4回目の松下電器創業者の松下幸之助さんなどとともに経済大国日本を作り上げた立役者であり、“エレクトロニクス立国日本”の源流ともなっている。また、井深さんはアマチュア無線に関しても縁が深く、アイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)の「関西のハム達。島さんとその歴史」の中で、やはり後にソニーで活躍した笠原功一さんとともにアマチュア無線(もちろんアンカバー)による交信を行なっていたことが紹介されている。

井深さんが発明した「走るネオン」がパリ万博で優秀発明賞受賞
松下電器を創業した松下幸之助さんについては、有名な二股電球ソケットや自転車用ランプなどの発明が創業時の会社を大きくしたといわれるが、創業時の井深さんの場合はそういったものは無く、戦後、ラジオの修理からスタートしている。では発明家ではなかったのかというと、そうではない。小さい頃から科学少年であり、29歳の時には井深さんが発明した「走るネオン」が、パリ万博で優秀発明賞を受賞している。井深さんもやはり発明家であり、アイデアマンだった。

科学少年だった井深さん
井深さんは、1980年(明治41年)4月11日、現在の栃木県日光市で産声を上げた。3歳の時に父を病気で亡くしたことから、母や祖父母に育てられたが、友達と外で遊ぶことは少なく、組み立て玩具や電気時計を組み立てたりして遊ぶことが多かったという。小学生の時に母の再婚先である神戸に引っ越すことになり、その後、名門校であった神戸第一中学(現兵庫県立神戸高校)に入学した。この頃、日本ではアマチュア無線の免許制度がなかったが、ラジオ少年は盛んにアンカバー(無免許)で無線機を自作し通信し始めた。

井深さんも真空管や部品を買って受信機を組み立てアンカバー通信をやっていた。その頃の無線仲間が、笠原功一さん、谷川譲さん、草間貫吉さん達だった。この時期アマチュア無線に興味を持つ少年が増えたのは、日本海海戦で日本海軍は無線を使い有利に戦いロシア海軍に勝ったことが大きく影響している。科学少年だった井深さんも当然、その影響を受けた。また、貿易が盛んな神戸だけに無線機器用部品を扱う店があったことも、井深さんと無線を結び付けることになった。無線機の改造などに熱中していた井深さんだが、当然、勉強はおろそかになり留年する始末。これではいかんと、アマチュア無線は一旦お休みし、受験勉強に集中する。そして早稲田第一高等学院に合格、東京の地を踏むことになる。

早稲田第一高等学院に入学、島さんと出会う
早稲田第一高等学院に入学した井深さんは、教室に入って驚いた。なんと黒板に「3BB de 1SH 科学部で会おう」と書かれていたのだ。3BBとは井深さんの関西でのアンカバー時代のコールサインであり、1SHとは同じく島茂雄さんのアンカバーのコールサインだったからである。3BBは笠原さんが日本を3地区に分け、関東はj1、東海はj2、関西はj3と区分けした提案によるものだった。当然、1SHの島さんは関東でアマチュア無線をやっていたことになる。井深さんより1年早く入学していた島さんは新入生の名簿の中に井深大さんの名前を見つけ、たぶん無線仲間の井深さんだと直感したのに違いない。

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井深さんは昭和50年、アマチュア無線の日の式典に参加、アンカバとサインしている

アマチュア無線が織りなす不思議な縁
そのような縁もあって、井深さんは島さんのいる科学部に入り、電気蓄音機を作りレコードコンサートを開くなど大いに部活を楽しむ。その後、早稲田大学理工学部に入り、電気工学の勉強に励む。その頃、実験中にネオン管に高周波電流を流し周波数を変えると光が伸び縮みすることを発見。「走るネオン管」と名づけて特許を申請、これが先に紹介したパリ万博で優秀発明賞を受賞したものである。

早稲田大学を卒業後、島さんはNHKに就職し、後に創業時の井深さんを援助することになる。その島さんが井深さんに請われてソニーに入ることになるのだ。井深さん、島さん、笠原さんとアマチュア無線が織りなす不思議な縁が3人を結び付けていく。一方、井深さんは、卒業後、写真科学研究所に就職する。「走るネオン管」の特許審査を行なった審査官に推薦されての就職だった。

盛田さんとの出会の場となった戦時科学技術研究会
写真科学研究所は映画の録音業務を行なっていたが、次第に映画会社としての仕事が中心になっていった。そこで「モノづくり」をしたい井深さんは社長に頼んで映写機をつくる同社系列の日本光音工業に移籍させてもらう。そこで測定器の研究をしていたが、やがて戦争が始まり映写機製造は限界となった。そのため井深さんは、早稲田大学時代の友人などと測定器専門の会社、日本測定器を設立し、自分の理想とする「モノづくり」に専念することになる。

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東京通信工業設立趣意書

測定器は軍のレーダー開発などに使用されたが、井深さん達の技術の優秀さが認められ「戦時科学技術研究会」委員に任命され熱線誘導爆弾の開発に参加した。そこで出合ったのが、もう1人の創業者と呼ばれ、後に井深さんと2人3脚で“世界のソニー”の育て上げた盛田昭夫さんだった。盛田さんは海軍の技術将校で、官・民合同の「戦時科学技術研究会」の軍側の委員として出席していたのである。

戦時中の体験を戦後、東京通信工業(現ソニー)を設立に反映
米軍機の本土空襲が日に日に激しさを増してきたため、日本測定器の工場は長野県に疎開することになった。井深さんも熱線誘導の実験中に米軍機から機銃掃射を受け死を覚悟するような目にもあったという。この有様では戦争は負けが近いと感じるとともに、無線に詳しい井深さんは同時に海外放送を傍受して得た情報により敗戦が近いことを知ったのだった。このような戦時中の体験が、戦後、東京通信工業(現ソニー)を設立する上で役立っている。

儲け主義ではなく、日本の再建を目指して会社設立
東京通信工業の設立趣意書には、会社設立の目的として 一、真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設 一、日本再建、文化向上ニ対スル技術面、生産面ヨリノ活発ナル活動 一、戦時中、各方面ニ非常ニ進歩シタル技術ノ国民生活内ヘノ即事応用 一、諸大学、研究所等ノ研究成果ノ内最モ国民生活ニ応用価値ヲ有スル優秀ナルモノノ迅速ナル製品、商品化 一、無線通信機類ノ日常生活ヘノ浸透化並ビニ家庭電化ノ促進(以下略)と。日本再建に向けての決意が述べられている。

また、経営方針として、一、不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ(中略)、一、会社ノ余剰利益ハ適切ナル方法ヲモッテ全従業員ニ配分、又、生活安定ノ道モ実質的面ヨリ充分考慮援助シ、会社ノ仕事即チ自己ノ仕事ノ観念ヲ徹底セシム。と儲け主義ではなく、社会に役立つ会社であり、従業員との良好な関係を目指している。今、企業のモラルが問われているが、井深さんはすでに創業の時に、今日を見越していたように思われる。

『参考文献』 Web:ソニーヒストリー、アイコムHP週刊BEACON「アマチュア無線人生いろいろ」(吉田正昭著)、「本田宗一郎と井深大」(板谷敏弘、益田茂著)、「ソニー技術の秘密」(木原信敏著)、Web:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』