4)モービルハムの登場(1)

[144MHzの普及]
50MHzと同様、144MHzでも徐々に交信距離が延びていった。余談ではあるが、原さんによると144MHzで最初に電波を出したのは、先にコンテストで1位となったと紹介した山口意颯男さんだった。その後、144MHzに挑戦するハムが増えるにともない、交信距離の記録も伸びていった。昭和35年9月には平塚と水戸の間で交信ができ、その距離は約150km。

交信距離の拡大に驚くハムも多かった。例えば、和歌山県の笹井美秋(JA3BL)さんは、勤務の関係からしばらく中断していたアマチュア無線を昭和40年(1965年)代に再開したが「144MHzの無線機を購入して使ってみると、有田の山奥からでも九州や山口とも簡単に話すことができ、驚いた」という。このような戦後のVHFの流れが詳細にわかるのは、[About VHF]の連載のおかげである。

[モービルの誕生]

桑垣さんはリグを積んで日本を駆け巡った。
--- アマチュア無線のあゆみより

昭和30年(1955年)ごろに「モービルハム」と呼ばれる人達が誕生する。最初はHF機を車に載せて始まったらしいが、やがて50MHzのモービルが主流になる。最初の本格的なモービルといわれているのが、神戸市の桑垣敬介(JA3RF)さんで、昭和31年(1956年)の春7MHz機を車に積んで四国と中国エリアをドライブした。しかし「7MHzはやはりダメ。50MHzにしなければ」と、翌年には50MHz機を取り付けて電監の検査を受ける。

桑垣さんは、7月20日にハム仲間との4人で神戸をたち、太平洋側を北上して北海道を回り、帰路は日本海岸側を走り約40日で神戸に帰着している。後にこの時のことを「道中記」として書いているが、昭和30年(1955年)代初頭の「のびやか」な話が続いており、楽しい読み物になっている。


JMCHの会誌第1号

50MHzモービルの組織化が始まったのは昭和30年(1955年)代の半ばであり、東京であった。この「モービルハム」の人口は増加を続け、自然発生的に組織が出来上がりその組織は全国をネットするようにまで膨れ上がり、ついには各地の会員を集めた全国大会が開催されるまでになる。この組織「JMHC=ジャパン・モービル・ハム・クラブ」自身にはその意識はなかったものの、JARLの1部からは「JARLに対抗する組織づくりをねらっているのでは」と警戒されたほどになっていく。

しばらくは、この「JMHC」の誕生、発展、最近を記していく。「JMHC」の前身であるMHC=モービル・ハム・クラブが結成されたのは昭和34年(1959年)10月17日であった。その中心となったのが石川源光(JA1YF)さん、柴田俊生(JA1OS)さん、村井洪(JA1AC)の3人。3人はともに戦前もハムであり、ベテランハムであった。

なかでも、石川さんは戦前はハムの育成、戦後はアマチュア無線再開に大いに貢献したハムであった。石川さんは大正10年2月生まれ、学習院高等科時代の昭和11年6月に免許を得る。戦前、学習院には大学がなかったが、高等科の学生によるアマチュア無線活動は活発であった。東大、早稲田、東工大にもハムは少なくなかったが、いずれも大学生であり、旧制高校の学習院高等科ではそれより若い生徒が活躍した。

[アマ無線が活発な学習院]

石川源光さん。戦前の学習院時代

学習院生の最初のハムは、森村喬(J2KJ)さん、清岡久磨(J2KQ)さんであり、それ以前には卒業生である松平頼明(J1FR)さんがハムになっていた。森村、清岡さんの後に続いたのが、今野信英(J2MH)さん、石川さん、安川七郎(J2HR)さんらであり、原さんは太平洋戦争勃発に災いされて免許を取れなかった。

学習院の高等科には「GRG=学習院ラジオグループ」があり、正確な発足時期は不明であるものの、石川さんによると「少なくとも昭和10年以前にはできていたのでは」と、後に同グループの機関誌に書いている。その石川さんは、戦後のアマチュア無線再開を機に心に秘めた計画をもっていた。「JMHC」は昭和36年(1961年)9月に会報の発行を始めたが、石川さんはそこに「創刊号発刊に当たって」を寄稿している。

[モービルへのあこがれ]
「今度アマチュア無線の許可をもらうときは、自動車にハムを付けようと、心に決めた私はアマチュア無線が再開になった頃より、ダイナモやその他モービルハム局用になると思われるジャンクを漁り始めた」(原文のまま)と、モービルハムへのきっかけを披露している。さらに「50MHzはTVIを心配して誰も使わなかったし、自動車に常備するアンテナは少しでも短い方が良いと考えたからである」と、50MHz帯を選んだ理由に触れている。


学習院ラジオグループの創立50年に発行された記念誌

石川さんによると「自動車にハム局を積んで走っていた人は、私より前にも数人いたが、常時の連絡を考えて車に恒久的に積みこんで、電監の免許を正式にもらったのは私が最初であった」と、第1号のモービルハムであることを自負している。その時期は昭和32年(1957年)であり、桑垣さんが50MHz機に切り替えた年と同じである。

柴田さんも、会報の同じ号で、戦前に76−41によるトランシーバーを自作して、モーターボートに載せたことに触れた後「20年後に自分の車に自分の局を載せて走り回ることができるとは夢にも考えられなかった」と書いている。

携帯電話のなかった時代、車の中や車で出かけた先で自由に交信できるモービルは、確かに夢のようなあこがれであった。時代もモービルが生まれる基盤を作り出していた。通信機は50MHz帯の技術を向上させ、50MHzによる交信距離も伸びつつあった。経済は「第1次狂乱時代」と後にいわれるほどの高度成長を続けていたからである。