2)アマチュア無線への挑戦(1)

[ラジオ少年に]
村松さんがラジオに興味をもったのは、従弟の影響が大きい。磐田市の中泉にあった従弟の家は江戸時代から医者を続けており、伯父は貨物船の機関長となったが、従弟は九州帝大(現九州大学)の医学部を卒業した後、召集を受けて出征していた。その家にはさまざまな工具類や科学雑誌もたくさんあり、村松さんは「子供の科学」で簡単な仕組みでラジオ放送の聞ける鉱石ラジオを知った。

「無念にも」と村松さんは顔を曇らせる。「伯父、従弟ともに戦死しました」と言う。譲り受けたラジオペンチ、ニッパー、ドライバーやヤスリなどの遺品工具を村松さんは、60年後の今でも使っている。当時の工具類はよほど品質が良いとみえ「これまで、どれだけのセットの製作に役立つたことだろう」と感謝している。

[座右の宝物]

雑誌「無線之研究」は大正13年に発刊され、15年から2年ほどJARLの機関誌を兼ねた

遺品の中には製図器具もあり、さらに多くの科学雑誌も残されていた。大正14年(1925年)15年(1926年)の「無線の研究」合併号には、わが国のアマチュア無線の創始者ともいえる笠原功一(後にJ2GR、JH1HAM)さんの「短波長受信記録」宮崎清俊さんのレポートも掲載されていた。

また「科学知識」の大正15年(1926年)6月号には河原猛夫さんがアメリカの短波実験家を訪ねての紀行文があり、アメリカのアマチュア無線設備の調査をしながらJ1AAのコールでQSOしたアメリカのハムから大歓迎を受けた様子を報告している。「これらの記事は私の座右の宝物だった」と、村松さんは当時を懐かしんでいる。

太平洋戦争は昭和20年(1945年)に終戦となり、貧しいが平和がやってくる。昭和22年(1947年)には米国の学制を見習った「学校教育法」が生まれ、現在の教育制度である新制中学、新制高校の時代となる。このため、村松さんら旧制中学4年は新制高校1年生となり、昭和25年(1950年)にようやく「浜松西高」を卒業するまで、旧制中学―新制高校生活を6年間送ることになった。

[大代さんとの出会い]
昭和22年(1947年)村松さんにとって大きな出会いがあった。市内亀山町の「響音堂」に出入りし始めたことである。そこの店主の大代守幸さんは、浜松二中の先輩であり、ラジオやオーディオ技術に詳しく、集ってくる少年達にさまざまなことを教えてくれた。大代さんは村松さんらに「爆撃で焼け爛れたラジオを集めてきなさい」と言う。

村松さんらは大代さんと一緒に焼けたラジオを分解し、トランスを取り外し鉄芯をペーパーやすりで磨き、新聞紙で絶縁層を作り再び絹巻き線を巻き、トランスを再生させた。「もちろん絹巻き線は焼けて被覆が不十分になっている。店主は木綿糸と一緒に巻くことで絶縁性が保てることを教えてくれた」と村松さんは言う。

「響音堂」には科学雑誌、ラジオ雑誌などもあった。トランスの再生のほか、シャーシの穴あけ、真空管のベースを利用したプラグインコイルの作り方、バリコンの羽根を抜いて短波用に改善することも知らされた。「ここで、ラジオの基礎を教えてもらったといえる」と、村松さんは今でも感謝している。大代さんは浜松二中の拡声器の修理も担当しており、親しくなっていたことからその助手をしたことがある。


村松さんと、自分で作った短波受信機。盛んに海外からの日本語放送を聞いた

「そのころの思い出があります」と村松さんは言う。拡声器の初段アンプ真空管のトップグリッドに触れるとブーという音が学校中に聞こえる。「自分しかできないいたずらに得意になっていた」時もあった。終段の真空管には807がプッシュプルで使われており、「その堂々たる佇まいに魅せられて思わず手が出てしまった。あまりの高圧にギャーと叫んだ声が校内に響いてしまったこともあった」と、度が過ぎたいたずらもしたらしい。

[短波受信機自作]
「ラジオ少年」になった村松さんは乏しい小遣いを貯めて真空管を買い、高1と呼ばれているラジオ受信機を作る。「真空管は放出品のRH2−FM2A05A−RE3−12Fで、エミ減の不良球が多く苦労した」と言う。それでも「当時の日本向け短波放送は強力であり十分に受信できた」らしい。

「VOA(ボイスオブアメリカ)自由中国の声(ボイスオブフリーチャイナ)や、ラジオ・オーストラリアは人気があった。なかでも、ワライカワセミの声で始まるラジオ・オーストラリアは深い変調音で、音楽番組が魅力的であった。政治色の強い共産圏の放送は敬遠した」と村松さんは当時を思い出している。

「短波の虜に」
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昭和22年の神田・秋葉原のラジオ屋街
--- アマチュアのラジオ技術史より


短波受信機づくりのために、村松さんは夜行列車に乗って東京の秋葉原まで部品を買いに出かけた。「当時は秋葉原よりジャンクやラジオ部品を扱っていたのは神田、須田町だったと思う」と村松さんは言う。調べてみると、昭和22年(1947年)ころのラジオ屋街の地図が誠文堂新光社発行の「アマチュアのラジオ技術史」に掲載されていた。それを見ると村松さんの言われる通り、当時は山手線・神田駅から須田町交差点までと、そこを左折して小川町に至る道筋にたくさんのラジオ関係の問屋が並んでいた。

それとは別に山手線秋葉原駅から御徒町駅にかけての両側にもかなりの店があったのも確かである。終戦直後は、もともと、銀座通りに衣料品、日用品とともに、ラジオ部品、日本軍の放出真空管、水晶発振子を販売するジャンク屋があり、ジャンク屋だけが北上し神田周辺に移り、さらに秋葉原に移動して、今日の姿になったといわれている。