3)アマチュア無線への挑戦(2)

ようやく作り上げた短波受信機で村松さんが海外からの日本語放送を聞いていると、ある時、放送ではないお喋りが聞こえてきた。「これは一体なんだろ、と思ったが参考書も聞く人もいなかった」と言う。「そのころ本来は月刊である“CQ ham Radio”はページ数も少なく、合併号となることも多かったが、内容が難しくとても理解できなかった。意味のわからない専門用語やQ符号も知らないため、アマチュア無線が理解できなかった」ことを村松さんは覚えている。


戦前からの高名なハムだった田母上榮(戦後JA1ATF)ともSWLカードを交換した

このころ、村松さんは試行錯誤しながらも受信コイルの巻き数を調整したり、再生バリコンを盛んに調整しながら短波を聞いていた。戦後、日本ではアマチュア無線はまだ再開されていなかったが、日本国内にいる米軍人がJAのプリフィックスを使っての交信や、また、他の国のハムからのCWや音声が聞こえた。その後、「CQham radio」でCWを知った村松さんはそれ以後、14MHzのCWバンドを昼も夜もワッチし始めた。

[アメリカのハム少女に感動]
昭和23年(1948年)のある日、村松さんは書店に「リーダースダイジェスト」を買いに出かけた。「リーダース・ダイジェスト」は、米国で出版されたいわば月刊の総合雑誌であり、日本語訳が販売されていた。村松さんは「敗戦後の貧しい日本人に夢のようなアメリカの生活のさまざまを伝える内容で、発売日には朝早くから書店の前に行列ができ、即売れ切れとなるほどの人気があった。この時の値段は1冊30円だった」と記憶している。


村松さんが感動した「カトリックダイジェスト」昭和23年11月号

その日出かけた本屋では「リーダース・ダイジェスト」は売れ切れてしまっていた。ふと見ると「カトリック・ダイジェスト」という雑誌が置いてある。「内容はどんなものか、と思い目次を開いてみる“素人短波通信”の文字が目についた。思わず買ってしまったが感激する内容であり、繰り返し読んだ」と言う。

アメリカの盲目の少女であるローズマリー・カナクがハム仲間の応援によってW9AWIを開局し活躍する内容で、記事は「ミルウォーキー市の彼女の家を訪問すると、青いひとみをキラキラと輝かせ、あたかも女学生が何か新しい冒険に乗り出そうとする時のように胸をわくわくさせた彼女があなたを迎えてくれるでしょう。そして、いかにハムが素晴らしいものか知ると思う」と様子を紹介している。この7ページの文章に村松さんは感動してしまう。

[SWL会員になりたい]
戦後すぐに再組織化されたJARL(日本アマチュア無線連盟)は、アマチュア無線の再開に向けて日本の行政組織や、当時実質的に日本を統治していたGHQ(進駐軍総司令部)に働きかけ、一方では再開のための準備を会員対象に進めていた。各地区に同好者のクラブの結成を督励し、また、受信技術を磨くためのSWL(短波受信者)制度を発足させた。

SWL制度は昭和23年(1948年)末から実施され、その盟員となるとJARLから「JAPAN1−**」のようなSWLナンバーが割り当てられ、受信報告(QSLカード)に記載することができた。盟員の資格はJARL会員であることで、往復はがきで申しこめば交付されるようになっていた。

高校3年生になった村松さんは「無性にSWLナンバーが欲しかったが“CQ ham radio”半年分の予約がなければ資格がないといわれ、貧乏学生にはとても無理であった」と当時を語る。同雑誌は当時JARLの機関誌であり、一時期は会費の代わりに雑誌購読が条件となっていたこともあった。

[台長さん]
新制浜松西高校での村松さんの生徒生活は活動的だった。戦後は教育にも新しい息吹が生まれ、改革が盛んに行われた。村松さんは「ホームルームクラブとして部活動が奨励され、興味あるクラブを次々とつくりました」と言う。映画鑑賞部、人文地理部、新聞部、科学部、短歌研究部を発足させた。短歌研究部で詠んだ歌が残っている。「駄作」と本人が謙遜するが紹介する。「もや晴れて木曾の川波静かなり 白帆は進む秋の朝開(あさけ)を」


村松さんが発行した3種のSWLカード

さらに、宇宙や天体観測にも興味をもつあまり「西山天文台」を創設した。西高が西山台にあったための命名であり「東亜天文学会」にも所属した。「東亜天文学会」は、大正9年(1920年)に発足した全国的な同好会であり、歴史も権威もある学会である。この時の高校の仲間は、今でも「ノス会」の名前で毎年集りをもっている。「ノス会」はノスタルジーの意味である。

当然、村松さんは「西山天文台」の初代の台長に就任する。後年、村松さんはある新聞の随想欄にこのように書いている。―毎日放課後、科学部員を集めて下級生からは尊敬、上級生からは軽べつを一身に受けていた。お陰で40年後の今日、いまだに「台長さん」と呼んで下さる終生の友人多数をもつことができたーと。「台長さん」と呼ばれるのは現在でも変わっていない。

[待望のSWL会員]
このような活動のなかでアルバイトもこなした。そのお陰で望んでいたSWLの盟員になることができた。JAPAN2−159の番号を受け取り「大学合格よりも何倍もうれしかった」と、当時を振り返っている。高校卒業が近づいていたが、村松さんは就職か進学か決めかねていた。そのため、大学受験勉強よりも短波受信に熱中した。

受信機も高周波2段付きを作り上げた村松さんは「14MHzのCW(電信)バンドをダイヤル一杯にスプレッドし、昼も夜も24時間ワッチに熱中しだした」と言う。スプレッドダイヤルは柱時計の歯車を改造して作り上げた。「当時はノイズが少なくこんな受信機でも世界中のCQが飛びこんできた」とその当時の楽しさを話している。