4)アマチュア無線への挑戦(3)

[気象図付き受信報告]
受信レポートには村松さんなりの工夫を凝らした。海外からの各「日本語放送」や「VOA」「自由中国の声」の受信は、3ヶ月ほどをまとめた受信報告書として作成したが、受信当日の気象図、太陽の黒点、流星観測など短波帯伝播と関連ある資料を付けた。しかも、郵便料金を節約するため、東京の各大使館に出かけて手渡した。「西山天文台」での成果を生かした受信レポートであるが、この分厚いレポートに対して放送局からは丁寧な令状が届き、しばしば新聞で紹介されている。


「自由中国の声」から寄せられた礼状

それから約50年後のことになるが、平成9年(1997年)の秋、勤務先を退職した村松さんは真っ先に台北にある「自由中国の声」局を訪問した。「時は流れ、人も変ったが、持参した当時の令状を手にした局員は、これは初代日本語放送の担当課長が書かれたものです、と懐かしげであった」と言う。同局は早速その日、特別番組を編成し「50年前のSWL来る」を放送した。番組には当然村松さんも出演したが、帰国後「自由中国の声」の熱心な日本人受信者から「聞きましたよ」と手紙が届いた。

再び、昭和20年(1945年)代半ばに戻る。受信したアマチュア無線の場合は雑誌の「CQ ham radio」で海外各国のビューローを調べて、受信レポートを送った。「航空便が5円もしたため、直接送れなかった」と当時の海外郵便の料金を良く記憶している。ビューローはそれぞれの国内のハムやSWLからの受信レポートを宛先に発送したり、海外から届いた受信レポートを国内に配送する組織でほとんどの国に設けられている。

[浜松クラブ誕生]
昭和24年(1949年)、浜松市や周辺のアマチュア無線志望者が集りクラブ設立の動きが出始まる。JARLがクラブ設立を推進していることについてはすでに触れているが、全国各地で発足し始めたのは昭和22年(1947年)ころからであった。再建されたばかりのJARLは、組織づくりでは昭和21年(1946年)から、22年(1947年)にかけて、関東、関西、東北、東海の支部をつくったが、それと平行して、会員10名以上で責任者の居る集りをクラブとして公認することにしていた。


JARL浜松クラブの第一回ミーティング。アグラをかいての会合だった

昭和23年(1948年)6月ころには全国で17クラブが公認されているが、1年後の6月にはさらに15クラブが公認された。浜松市を中心とした「浜松クラブ」は、この年の4月1日に設立され、15クラブの中にクラブ名が記載されている。もちろん、村松さんはその前後のいきさつについて鮮明に記憶している。

平成12年(2000年)に村松さんは「浜松クラブ50年前の思い出」を書いているが、この中で当時を再現している。少し長くなるが一部を紹介する。―――当時、浜松には3つのハムグループがあった。受信機や測定器などを製作するハード屋さん達、ここはオジイチャンの加藤武雄(後にJA2BD)さん、電器堂の加茂耕作(後にJA2LJ)さん、RK商会の駒田隆一(後にJA2RK)さん、国鉄(現JR)の谷下沢一男(後のJA2BH)さんなど錚々たる実力者の集りであった。

浜松の西部や天竜川流域・磐田方面では山本正康(後のJA2FE)さんを核として多くのSWLが日夜ワッチに励んでいた。ソフト屋さんともいえる2つ目のグループであった。そして、高町のわが家では北高、西高、浜工高などの学生がワイワイ、ガヤガヤと集り、金もなければ腕もなく、ただただ若さだけが取りえの怖いもの知らずの第3の集団があった。―――

[初代会長に横山さん]
この3つの集団をまとめたのが横山正巳さんだった。横山さんはこのころ浜松駅前で「特殊電気」の店名でジャンク品を販売しており、ハム仲間は「特電」と呼んでいたらしい。「浜松クラブ」の最初のミーティングは村松さんのお姉さんが先生をしていた「鴨江洋裁学校」で開かれた。会場費がかからなかったからである。「召集令状は山本さんの勤め先、三立製菓の事務所でガリ版仕上げ。(会場では)全員が板敷きの上にアグララをかいて食べた先輩差し入れの菓子の甘さが忘れられない」と村松さんは懐古している。


第一回会合を伝える「浜松クラブ会報」NO1

太平洋戦争中「敵性言語」として英語の使用が禁止されていたため「ミーティング」という言葉にも「新しい時代の匂いがした」と感ずる参加者も居た。このミーティング開催の準備や会場手配では、横山さん、加藤さん、山本さん、村松さんが中心的に活動し、会長には横山さんが選ばれた。横山さんは戦前のハムであり、また「もの静かで、他の人のやっていることを温かく見守っていることができるようなところをもっていた」ことから選出されたといえる。

この最初のミーティングは昭和25年(1950年)の8月に開かれている。村松さんによると「JARLへの発足届けは24年(1949年)であるが、メンバー全員を集めての初会合はこの年になったと思う」と言う。会場の洋裁学校は幼稚園も兼営しており「椅子に座ろうとしたら椅子が小さく、また、洋裁は正座して教えていたので適当な椅子が無く、アグラをかくことになった」らしい。

[山本さん夫妻]
リーダー陣の一人である山本さんは、この当時「当山てる子(後のJA2JX)さんとともに日本のSWLを代表する人たちであった」と、村松さんは当時を語っている。村松さんは何度となく受信機を改造し、アンテナを張り替えて受信のレベルアップを図ったが「その成果はお二人の足下にも及ばなかった」と言う。

村松さんが徹夜で受信した「珍局」も山本さんは「ああ先日出てましたね。QSLもいただきました」とさりげなかったらしい。このため、村松さんら学生仲間は「海外からの電波は遠州灘から上陸し、最初に中田島の海岸に近い山本さんのアンテナに捕まり、市街のハムはそのおこぼれしか拾えない」と噂し合ったと言う。なお、後に当山さんは山本夫人となった。