6)戦前の静岡のハム達(2)

[テレビの父・高柳健次郎]
一方、浜松高工の高柳健次郎さんは世界で始めて電子式テレビを開発した人として知られており、本人の著書もありさまざまなところで紹介されているため、簡単に触れておきたい。高柳さんは明治32年(1899年)現在は浜松市である浜名郡和田村で生まれ、高等小学校、浜松準教員養成所、静岡師範学校(現静岡大学)を卒業後、大正7年(1918年)に東京高等工業学校(現東京工大)に入学する。


昭和8年、TV実験放送用短波送信機。左が高柳さん
--- 静岡大学テレビジョン技術史より


幼少期から機械に興味をもち模型作りが好きだった高柳少年に、将来の研究テーマを決定付けたのが和田尋常小学校3年生の時に見た「巡回講演」だった。日露戦争時、軍艦「信濃」に乗っていたという水兵3人がやってきて、無線通信の実演を見せたという。教室の両端に置いた通信機の片方からモールス信号を送り、もう一方で受信するというもので、線がつながっていないのに伝達できる仕組みに高柳少年は大きな刺激を受けたらしい。

ちなみに、鉱石検波器が発明される前のため検波器には「コヒーラ」を使っており、電送されたモールス信号の内容は日本海開戦で発信された「敵艦見ゆとの情報に接し・・・・」の有名な電文であった。このことは、高柳さんの自著である「テレビ事始」に書かれており、やがて高柳さんが無線による画像の電送を目指す最初のきっかけとなっている。

大正10年(1921年)に神奈川県立工業学校の教諭になった高柳さんは、フランスの雑誌に掲載されていた「未来のテレビジョン」の空想漫画を見て決断する。「無線で音声が送れるならば画像が送れないことはない」と。この時から、高柳さんは「無線遠視法」と名付けた研究に乗り出す。

大正13年(1924年)新設された浜松高等工業(現静岡大学工学部)の助教授として赴任し、本格的にテレビの研究に没頭し、大正15年(1926年)にようやく「イ」の字を無線電送して映し出すことに成功する。当時、海外では機械式の電送研究が行われており電子式では初の快挙であった。

[アマチュア無線への影響は?]
昭和15年(1940年)に計画されていた東京オリンピックをテレビ放送しようとの国家的プロジェクトのためにNHKに出向、戦後は日本ビクターで活躍する高柳さんのことについては省略する。昭和12年(1937年)にNHKに移る時には研究員20名を引き連れて行った。当時、NHKは大量のテレビ技術者を必要としており「新卒学生向け短期養成講座をNHKの経費で開始した」ことを村松さんは戦後に聞いている。

約15年に及ぶ高柳さんの浜松時代はアマチュア無線にも大きな影響を与えた。「影響を与えた」と断言したもののその実証は難しい。高柳さんの浜松時代はわが国で個人が盛んに無線通信の実験を開始し、JARLを結成し、正式に免許が下された時期でもあった。画像の無線伝送の前提として無線通信があり、高柳さんの周辺にはその技術を取得した学生が多かったはずである。

ここまで考えてきて、東北帝大の八木秀次・宇田新太郎さんのことを思い出した。大正15年(1926年)に「八木・宇田アンテナ」という世界を驚かす開発を行った両氏も同じように「アマチュア無線の黎明期」に、東北帝大に在職し短波の研究に没頭したが、その影響を受けたというハムの資料が見つかっていない。

[影響はあった]

昭和9年、走査線100本でこのような画像を再生した

わずかに、海軍勤務の有坂磐雄(J6CD)さんが両氏から教育を受けるために委託学生として、東北帝大にやってきた記録がある程度であり、しかも、有坂さんがすでにハムになってからの話である。浜松の場合には、昭和62年8月に浜松電子工業奨励会が発行した「静岡大学テレビジョン技術史」にかすかにそれらしい記述が見られる。

それによると画像の電送は「校内実験の場合は電界強度が非常に強いので、電信等の混信は全く認められなかったが、校外に出て初めて激しく影響されることがわかった。使用周波数が国際通信ならびにアマチュア無線周波数帯内のため、混信が多く、時々映像がはなはだしく妨害を受けた」という。

この実験は昭和9年(1934年)4月から5月にかけてであり、浜松の空をアマチュア無線が飛び交っていたことになる。高柳さん、八木さん、宇田さんがアマチュア無線局の誕生に影響を与えたのかどうか。確証をもっていえるのは仙台、浜松にしても大都市を除くと圧倒的に戦前のハムが多いことであり、そのことが浜松高工、東北帝大の教授、助教授の影響があったとの確証の理由になっている。

[NHKへの協力]
村松さんはやがて静岡大学・工学部電気科に入学したため、戦前の浜松高工・高柳門下生の後輩の立場となる。そのため、当時のことをある程度聞いてもいた。「当然のことですが、テレビの放送実験のために送受信機が必要となり、ハムである私設無線局が活躍しています。高柳先生とともにNHKに移られた人達は戦後、テレビ受像機メーカーで成果をあげた有名な方ばかりです」と言う。

高柳さんのいわば孫弟子に当たる村松さんは、高柳さんについての2つの思いでがある。村松さんの伯父の一人が高柳さんの遠縁に当たっており、村松さんの祖父が経営していた材木会社から独立し、天竜川流域で材木会社を営んでいた。高柳さんは一時、この伯父の家に下宿していたことがある。

戦時中や戦後、村松さんはこの会社にたきぎ用の材木の切れ端をもらいにしばしば出掛けたことがあり、そこの倉庫で高柳さんの大きな送信機を見たことがある。「先生がNHKに行かれる時か、戦時中に疎開のために不要な機器を置いていったのか、理由はわかりませんでしたが、100〜数100Wの送信機でした」と言う。戦後、学生となった村松さんは東京・三鷹にあった伯父の家で高柳さんに2、3度会っている。「そこでテレビ時代の到来を傾聴した」こともあった。