8)戦前の静岡のハム達(4)

[J2OM]

山田愿藏さん。平成13年秋のレインボー会で

山田さんはその浜松高工でアマチュア無線を教えてもらった。「その時分に韓国の留学生で黄泰永さんという人が、もうアマチュア無線をやっていましてその人から教わりました」とアマチュア無線との出会いを語っている。ハムになった山田さんはしばしばJARL関東支部のミーティングにも参加した。

当時のミーティングは、内幸町にあった大阪ビル内のレストラン「レインボーグリル」で行われていた。始めて参加した時のおもしろい話しがある。山田さんが「私はJ2OMの山田でございます」と自己紹介すると途端に大笑いになった。山田さんは理由がわからずきょとんとしていた。それがさらにおもしろいらしくて笑いが収まらなかったらしい。山田さんはアマチュア無線では「OM」が年輩のハムを意味することを知らなかった。

[大正14年の免許]
静岡県の「私設無線局」のリストは、主に戦前ボランティアでコールブックを発行続けた和歌山市の宮井の宗一郎(J3DE)さんの通称「宮井ブック」を参考に、さらにJARLや、無線雑誌社発行のコールブック、また、一部JARLニュース、官報と照合して作成した。それをながめていて驚くのは、浜松高工の免許取得の早さであり、大正14年(1925年)は各地の逓信局関連施設、帝国大学などとほぼ同じか早い免許である。この免許は高柳さんが赴任した翌年に当たる。

静岡工業の免許は多くのコールブックが大正15年(1926年)2月25日としているが、昭和5年(1930年)9月に「電話局」免許を受けた記録があり、後にコールを受けたというのが正しいものと思われる。仮に大正15年(1926年)とすればJ1のサフィックスとなるはずであるがそれが見当たらず、さらに昭和3年(1928年)10月の官報にも記載がない。

[個人最初の長田さん]
クリックすると拡大した画像が見られます。

昭和8年の「関東防空演習愛国無線通信隊編成」の文書

個人でもっとも早い免許取得者が長田祝太郎さんであり、常磐町に下宿していた浜松高工生時代である。長田さんはその後、大阪帝大に進みJ3となり、卒業後は川西機械製作所(現富士通テン)に勤務した。大阪に移った昭和10年(1935年)以降はJARL関西支部のミーティングに半分程度出席した記録が残っている。

不思議なのは昭和8年(1933年)7月20日調べとして、当時のJARLニュースに掲載された「関東防空演習愛国無線通信隊編成」表のことである。長田さんは第5斑に所属し、住所は東京・中野区の下宿。職業欄には日本大学工業電気科と記載されている。この点も長田さんは盛んにJARLニュースに近況の投稿をしており、それによって謎が解けた。

昭和6年の免許取得後ほどなくしてJARLに入会、この年から翌年にかけては「同時送受話用リレー製作中」「新XMTR実験中」「学年末試験中コンテストに参加」と報告。昭和8年(1953年)7月には「学生をやめ、忙しい」と投稿している。浜松高工卒業後に日大に何らかの形で勤めたと見て良さそうだ。大阪に移ってからは昭和11年5月にJARLが実施した14MHz全国コンテストでは14位になった記録がある。

クリックすると拡大した画像が見られます。

長田さんはJARL関西支部の例会にしばしば参加した。昭和10年7月の例会出席者自筆の名簿

[軍で活躍した佐藤さん]
村松さんが戦後すぐに聞いた戦前のハムの話は、J1GAからJ2INとなった佐藤謙次さんのことである。「シャックにはハマーランド製のリグがあり、見事なものだった。飛行機乗りは飛行機は必ず落ちるものとの諦観をもっており、かなり派手な生活をしていたため、高級品も買えたのでは」と聞いている。

佐藤さんは明治36年生まれ、昭和7年(1932年)に免許を取得した。JARLの活動にも積極的であり、東京在住の昭和6年(1931年)にJARLに加入、昭和8年(1933年)2月の関東支部集会に参加の記録があるほか、「JARL NEWS」にもしばしば近況報告を寄せている。それまでの住所である東京府北多磨郡立川から、東京市外小金井村に移転したことを、昭和9年(1934年)4月のNEWSに「兵隊業大忙し」の文章とともに報告している。この時はもちろんJ2INのコールである。

佐藤さんについては、最近新しいことがわかった。昭和7年(1932年)の「宮井コールブック」には、佐藤健児の名前でJ1DCXの記載がある。免許取得は昭和5年(1930年)12月11日。住所は東京市外立川町飛行第5連隊である。その後に発行されたコールブックを見ているとコールがJ2INで佐藤謙次の名前があり、免許取得は昭和7年(1932年)12月15日である。職業は軍人で航空無線係。

生年月日で確認しようとしたが、片方のブックには記載が無いため確認できなかったが、住所の電話番号が同一であり同一人物であることがほぼ間違いないことがわかった。戦前のサフィックスは2文字であったが、軍関係者には3文字が与えられており、JARLへの加入はJ1DCXであった。佐藤さんがその後改名したこともわかった。


佐藤さんのシャック --- JARL浜松クラブ会報より

[機上からの実験]
佐藤さんは盛んに航空機での実験も行っていた。昭和6年(1931年)の8月には「自動車、飛行機間の通信を完成。7月5日までの上田市、新潟市、立川、浜松での実用化は100%成功」と報告している。浜松時代の佐藤さんの活躍は目覚しかったため、同じ仲間の西田亮三さんや横山正巳さんらも当時を覚えており、戦後になってから西田さんは「INの活躍はものすごく852PPのXMTRやハマーランドのRCVRをもち28MHzでそのころ珍しいWACを完成していた」と浜松クラブの会報に載せている。

西田さんはそのころ浜松高工の学生であったが、横山さんは西田さんや佐藤さんのリグを見学したりしており、佐藤さんについては「航空隊教官佐藤さんは500W出力送信機で28MHzの交信を行っており、びっくりした」と書いている。