9)戦前の静岡のハム達(5)

[アマチュア無線で感状]
佐藤さんの話が長くなるが、スケールの大きかった佐藤さんらしい話題なので紹介したい。昭和34年(1959年)から翌年にかけて、朝日新聞社の小林幸雄さんが「日本アマチュア無線史」を書かれた。その中で矢木太郎(J2GX、JH1WIX)さんの話したことを取り上げている。それによると、矢木さんは昭和8年に立川の飛行第5連隊に入営した。


戦前、戦後もJARLのために貢献した矢木さん

回された通信斑の班長が佐藤特務曹長だった。しばらくしてアメリカ主催のアマチュア無線国際コンテストが行われた。佐藤さんは通信室の壁に「向こう1週間通信演習を実施」の紙を張りだし、CQ、CQとキーをたたきだした。夜になって週番の将校が見回りに来る。以下、原文の大意を拝借する。−「おお佐藤、大変だなあ、徹夜の演習か。身体に気をつけてやれよ」と言い「この2等兵はなんじゃ」と矢木さんのことを聞く。

「ハイ。矢木はなかなか技術をもっとリますので助手を命じております」「そうか、矢木2等兵しっかりやれよ」週番司令はいたく感激してしまい、連隊長に報告した。「ホー、夜も寝ずにやっとるのか」と連隊長はアマチュア無線をやっているのも知らずに感状を出してしまった。−矢木さんはこうした名班長の下だから気楽だったらしい。

[天津で事故死]
その佐藤さんも出征した。長野の堀内安(J2HC)さんはその出征先で佐藤さんに何度か会っている。堀内さんは戦後になって、戦前のハムの集りである「レインボー会」の機関紙に「陸軍航空部隊で活躍したハムの記録」を書いた。「戦地には新聞報道関係者、放送局、軍人、軍属などにJARLの人々が少なからずいた。昭和15年から16年にかけて私達は北京にいたが、佐藤謙次(J2IN)詠村昇(J2IL)両氏と一緒に偕行社で会食したり、通州に出掛け放送局の山口篤三郎(J3CK)氏にも会ったりしたものである」太平洋戦争開始前の話である。


西田さんの戦前のシャック
--- JARL浜松クラブ会報より


しかし、佐藤さんは退職後に勤めた満州航空の航空通信士の時に、天津で事故で亡くなる。西田さんは、浜松時代の佐藤さんの思い出を次ぎのように締めくくっている。「佐藤さんが薄くなった頭を電灯で光らせながら、小生らに草分け時代、JARLの創立当時の珍談等よく聞かしてくれたのを思い出す」と。

[ラジオ少年・平岡さん]
戦後設立された「浜松クラブ」の初代会長である横山さんは、養鰻業の家に生まれ、現在の県立磐田南高校の前身である旧制見付中学の3年生の時にアマチュア無線を知る。「同級生に平岡康(J2JR)がおり、口ずさみでトンツ―でお祝いしたことがきっかけで、彼の家に遊びに行きハムの面白さを知った」と言う。

「口ずさみ」を解説すると、ベルリンオリンピックの水泳1500m自由型に同級生の寺田登さんが出場することになり、その壮行会が開かれた。平岡さんは祝辞をモールス符号でやって聞かせたらしい。ちなみに寺田さんは見事に金メダルを取っている。平岡さんはそのころすでに安く先生達のラジオを作ったりしており、優秀なラジオ少年だった。

ところが、平岡さんは体が弱いため退学せざるを得なくなり、療養しながらアマチュア無線の勉強を続け、16歳で免許を取得した。横山さんによると「平岡さんは送信機は112AのTGTR、RCVは24,24,24,56の1−V−2でアルミケースにきれいに配線され、バックキーで非常に良好に運営されていた」と独学ながら進んでいたらしい。

[横山・西田さん]
ベルリンオリンピックは昭和11年(1936年)8月に開催されており、刺激を受けた横山さんはその年の12月に免許を取得した。受験の前には「浜松鴨江の山崎孝さんや西田さんのハムの運用も見学した」と言う。自作の時代であり「部品を集めて全部作らなければならないので満足にセットが働くことは少なく、改造する時間が多くQSOはあまり出来なかった」とぼやいている。

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横山さんの戦前のQSLカード
--- JARL浜松クラブ会報より


一方、西田さんは戦前の浜松地区のハムについて「浜松高工の学生が多かったので、卒業すると移転するものがあり、交信していたのは多い時でも7〜8局であった。もっともアクティブだったのは昭和8〜14年ころであったろうか」と記している。西田さんは山崎、三宅、栗田、鈴木さんらと親交を深め、「牛なべをつつきながら勝手に熱をあげて迷論を戦わしたものだった」と懐かしげに書いている。

[地味だった浜松のハム]
戦前のJARLニュースには、長田さん、佐藤さんのほかには浜松地区のハムの報告がほとんどない。また、JARL関東支部の会合、JARL全国大会への出席も少なかった。考えられる理由は2つある。一つは東京と大阪・名古屋に挟まれ、会合出席の地の利が悪かったことと、浜松のハムの特殊性であった。学生、軍人ハムが多い浜松地区についてはすでに触れているが、学業や訓練に追われた下宿生活では本格的なアンテナの設置も出来ず、落ち着いて運用できなかった。このため、コンテストやアワードでも浜松のハムの名前が見つけにくい。

JARL全国大会についていえば、第一回は昭和6年(1931年)4月に近くの名古屋市・中村公園で行われた。すでにハムになっていた長田さんを含めて浜松からの参加はなかった。第二回の東京・レインボーグリルも同様である。その後の大会でも参加の記録は見つかっていないが、昭和13年(1938年)4月3日の第7回「浜名湖湖上」大会には横山さんが加わっている。

この大会には24名が参加したが、横山さんは「当時世界的に有名なハムばかりでうれしかったものです。J1JJ大河内さん、紅一点のJ1IX杉田千代乃さんなど、一緒に館山寺に舟遊びした」と記している。この大会はたまには船の上でと企画されたが、日中戦争が始まり、召集されるハムが増えていく時代に、せめて明るく、というねらいがあったのかどうか。