10)村松さんの活躍(1)

[戦前のハムの戦後]

「Rainbow News」第21号。現在はレインボーDX会として続いている

静岡県の戦前のハムの内、戦後のアマチュア無線の再開後に再びハムになったのは2名であった。他地区と比較してやや少ない。また、戦前のハムが「レインボー会」を結成したことは先に書いたが、この会の会員は179名であり、戦前のハムの数が約250名と見られていることから70%強の入会率である。しかし、静岡の場合は岡本、西田、横山、仲川さんの4名のみが会員となった。

浜松地区の入会率の低さは、戦前に他地区のハムとの交流が少なかったのも理由として考えられる。「レインボー会」の会員は折りに触れて戦前の思い出を会報「Rainbow News」に寄稿しており、戦前を知る貴重な資料ともなっている。このため、同会報からも静岡の戦前の状況を知ることが難しい。しかも、4名ともにすでに他界されている。

[手書きのカード]
再び浜松の戦後に戻る。今、村松さんの手元にある最も古いQSLカードは、昭和24年(1949年)10月に受信したハワイのアンディ・フチカミ(KH6BA)さんからのものである。「ノイズの少ない当時は1−V−1受信機でも、世界中のCQが飛びこんできた」と村松さんはそのころのことを語っている。


村松さんは当初、手作りのSWLカードを作った

村松さんが望んでいた「JAPAN2−159」のSWLナンバーをもらうことができたのは、このすぐ後のことである。村松さんの受信活動はますます熱を帯びた。「昭和24年(1949年)から昭和26年(1951年)にかけては月に10通、年間100通位のSWLカードを発送したと思う」と言う村松さんは、最初はすべて手書きでカードを作った。

手作りが間に合わなくなった村松さんは朴の木にカードを彫り、印刷機の枠台に組み込んでもらって、100枚ずつ印刷を頼んだ。浜松クラブのメンバーであり、また、浜松西高で積極的に活動する村松さんの周りには同級生や、後輩が集って来た。一時は学生だけのクラブを結成したい、と村松さんは相談されたことがあるが、いつの間にか断ち切れとなったこともあった。

[昼飯を我慢]

集めたカードを前にして受信に専念する高校時代の村松さん

昭和25年(1950年)進学か就職か迷っていた村松さんは、静岡大学・工学部・電気科に入学する。入学しても短波受信の熱狂ぶりは変わらなかった。このため、送るQSLカードの数が増え、印刷代に困った村松さんはついに昼飯を抜くことにした。「食パンと牛乳代を毎朝母親からもらっていたが、全部ためて印刷代と送料にした。腹が減っても水を飲んで我慢した。それでもつらくはなかった」と言う。

当時、世界のハムの猛者といわれていたのが、KH6IJ、W6AM、LU8CW、PY2CK、EAφACなどだった。「日本のSWLのログに必ず記入されるこれらのカードを受け取っていたほか、YV5BT、9S4AL、ST2GL、ZS2FVなどのカードをいつも楽しく眺めていたのもこのころだった」と村松さんは記憶を辿っている。

船便で2、3年もかかって送られてくるカードも多く、それだけに「届いたカードはうれしく、いとおしかった」と言う。このころ、村松さんは「原みどり」のペンネームでCQ誌にたびたび投稿していた。SWLのレポートであったり、アンテナの製作、受信機の製作の報告などであった。「原みどり」の名をSWLカードにサインしてもいた。

[浜松POBox]
当時、JARLはTokyo POBox377の私書箱をもっており、良く知られていた。村松さんは「長い町名アドレスよりPOBoxでしゃれたい、と思い横山さんの資金援助で浜松POBox48をもった。QSLカードに印刷するとなかなか格好が良かったが、浜松クラブ全員には利用されなかった」らしい。その後、村松さんは名古屋に移転した後もしばらくは村松さんが自費で支えていたこともあった。


村松さんが初めて受け取ったQSLカード

そのころの思い出に浜松クラブ主催の「受信カードコンクール」がある。当山てる子さんがヨーロッパの受信カードコンテストに入賞されたのを聞き実施されたが、村松さんもその時の記憶が定かではない。横山さんが賞品のラジオゾンデ10台を寄贈された。「多分昭和26年(1951年)の末から翌年にかけてだったと思う。全国から数十通の手作りカードがPOBoxに届き、入賞者に賞品を発送した」というものの、まったく記録は残っていない。村松さんは「昭和27年(1952年)のアマチュア無線再開という大きな波に、はかなく飲み込まれてしまったのでは」と思っている。

[HAC完成]
昭和26年(1951年)になると、アマチュア無線再開の動きが出始め、6月末には第一回のアマチュア無線技士の試験が行われた。村松さんは「私が開局するのはまだ先だろうと見送った、というのは表向きであり、試験会場の名古屋まで出かける交通費がなかった」と言う。その代わり、その年の7月31日の日付で村松さんは6大州のハム受信に与えられる「HAC」を完成させた。全国で23番目であった。

「HAC」は、戦前、戦後を通じて初のJARL発行のアワードであり、昭和25年(1950年)4月に発表された。昭和27年(1952年)1・2月のCQ誌合併号の「QSL News」欄に村松さんのHAC体験が掲載された。そのなかで、完成までに9カ月かかったことや、カードを催促するために漫画を描いた手紙を入れるなどの苦労を紹介している。