17)村松さんのCBC時代(1)

[社会人生活]

CBC無線室で交信に熱中する村松さん

昭和29年(1954年)村松さんの名古屋での生活が始まった。就職したCBCは2年後のテレビ放送開始を前に多忙であった。それを予測していたからこそ村松さんはアマチュア無線機を封印して浜松を去ってきたはずであった。しかし、簡単には忘れることのできないアマチュア無線の世界であった。

当時、名古屋には「中川」「名南」「名古屋」の3つのJARLクラブがあった。中川区を中心とした「中川クラブ」には、東海支部長でもあった高田史朗(JA2AE)さん、伊奈博行(JA2AN)さんらが、南区を中心とした「名南クラブ」には長谷川尚司(JA2BL)さん、加藤実(JA2AR)さんらがおり、また、「名古屋クラブ」では山本信夫(JA2FN)さんが中心になっていた。

[練習生]
CBC入社時の肩書きは「練習生」であり、半年後に「社員見習」となった。「当時のマスコミの世界ではこの名称を使っていた。月給は8千円。しかも2回の分割でもらった」と、村松さんは当時を思い出している。しばらくして新人歓迎会があった。「名古屋市の繁華街・栄にある“とら屋”で、ぜんざい、あべ川もち、に砂糖が山盛りの食べ物が出された。これは“三つ揃い”と呼ばるメニューで、当時は貴重品であった砂糖を目を白黒させて飲み込んだ」と言う。

この年、人気のあった「中日・巨人戦ナイター」を空から中継しようと、小型機・セスナを飛ばすことになり、村松さんは搭乗を命じられた。165MHzの放送用周波数での実況をサポートしたが「空と地上の交信が簡単で素晴らしいということを知った。ただ、なぜ新人の私が、と気になったが、どうやらセスナはたびたび事故を起こすので、影響の少ない新人に担当させた、と洩れ聞こえてきた」こともあった。

下宿は千種区・覚王山の日泰寺の近く。日泰寺は正式には覚王山日泰寺であることから覚王山の地名が生まれた。ちなみに日泰寺は明治33年(1900年)に当時のシャム国(現在のタイ国)から送られた仏舎利(釈迦の遺骨)を祭るために建立された。同寺の周辺は古くからの住宅地であり、高級住宅もあれば高級料亭もあった。「昼間、階下から“チントンシャン”と三味線の音が聞こえてくる。下宿のおばさんは長唄、常磐津のお師匠さんだった。しかし、村松さんは財界の名士にも芸妓さんにも縁がなかった」若いサラリーマンだった。

[深窓の令嬢]
ロマンスが生まれそうな話もあった。どういうわけか、ある日隣のお屋敷から「娘がピアノを購入して今日が弾き始めなので、模範演奏方々夕食にご招待したい」という話がそのお師匠さんを通してあった。「深窓の令嬢の母君は、浜松からやってきたキーの専門家が下宿している」と聞いたらしい。

ピアノのキーと電鍵のキーを聞き間違いしたらしいが、もっともなことも多かった。浜松といえば日本楽器など楽器関連の企業が多い、その浜松からやって来たことに加えて勤務先である「CBCは当時は文化の殿堂だった。劇団、楽団、合唱団、文化クラブなど活発な活動の拠点であったためだった」と村松さんは解説してくれた。

[再びアマチュア無線]

その名も「展望閣」と名付けられていた市営住宅

村松さんは結局「名古屋クラブ」に所属し、クラブ会報の編集を手伝うなどの活動を始める。しばらくするとCBCにもアマチュア無線クラブが誕生し、局内に無線室が設けられた。当初、クラブのメンバーは35名であったが、その後、80名までに増えていった。この数は同局の技術職の社員150名の約半分に当たる。

職場はラジオの主調整室から、送信所までのVHF回線の管理に移った。下宿も中区東田町の局まで歩いて5分程度でたどりつく所に変わる。朝の出勤時間は10時。朝食を6時から8時の間に済ませてしまい、出社して無線室に入りこんで交信した。夕方も終業後に無線室で遅くまで無線機の前に座ることが多かった。もちろん、仕事も十分にこなしたが、アマチュア無線からは離れられなかった。

[最後の自作]
昭和33年(1958年)結婚。千種区希望が丘の海抜80mにある市営住宅に移る。「住宅の名前も“展望閣”であり、すっかり気に入った」と言う。そして、再び自作を開始。SSB(シングル・サイド・バンド)時代の夜明けであったため「SSBフィルター作りに取り組んだが、手におえなかった」と村松さんは言う。やむなく、7MHz、50MHz、144MHzのA3オールバンドを作り上げた。「このころはほぼ毎日1時間、数局と交信する日課」だった。


村松さんの最後の自作機となったオールバンド通信機

学生時代よりは部品の購入資金ははるかに豊かになった。また、必要な部材、部品の販売店が大須の商店街にあり、東京の秋葉原まで出かけなくとも良くなった。昭和30年(1955年)代前半は、アマチュア無線機を販売するメーカーが続々誕生した時期であった。村松さんにとってはこのオールバンド機が最後の自作機になった。

入社した年の秋、どういう理由か翌年採用する大卒者の面接を言いつかった。「役員を始め、管理職が多忙なのか、あるいは若い学生の品定めは同年輩が良かろう、と判断したのか、理由はわからなかった」と言う。困ったのは最終面接に残った10名は全てハムであり、日頃の交信相手であったことだった。「採用は1大学に偏らせない、という方針があり、やむなく採用を見送ったハムもいた。当分の間うらまれました」という苦労もした。