19)村松さんのCBC時代(3)

[テレビ放送開始]
昭和31年(1956年)12月1日、CBCのテレビ放送が始まった。もうしばらく、放送現場の話を続ける。初期の放送機材は真空管式であること、カメラの感度が低いことなども原因して大きく、重かった。「カメラヘッド、三脚、カメラケーブル、ミクシング装置、照明器具、マイクロホンなど全てが重く、多くの人手が必要であり、人海戦術だった。そのため、ぎっくり腰になる社員も多かった」と村松さんは言う。

機材が大きければ必然的に中継車や電源車も大型になる。中継車や電源車は、あらかじめ走行ルートを調べておければいいが、ニュース取材などは突発的である。「道路が狭くて進めなかったり、街路灯の柱を壊した、ガードレールを曲げてしまった、などのクレームも多かった」らしい。「中継車の内部も夏は地獄でした」と村松さんは言う。

機材が放出する熱で車内は温室状態となるため、氷柱を車内に立てたりしたが、それでもたまらず「パンツ一つで仕事をする社員もいた」ほどである。また「野球中継で卒倒するカメラマンもいた」と言う。加えて機材も不安定だった。なにしろ、フィルム映像をテレビ映像に替える「テレシネ」、日本語吹き替え装置の「シネコーダー」、初期のVTR「キネレコ」いずれも初めて使うものであった。「最初のころは常時放送ではなく、1日数時間の放送のため、電源を切り再びスイッチを入れると働かないなどのトラブルルも少なくなかった」と言う。

苦労したのはそれだけではなかった。中継現場での食事の確保である。若い社員が重労働をするだけに食事は大事だった。質、量ともに神経を使った。現場は弁当が簡単に手に入る場所だけではない。村松さんが後年、中継の責任者になった時には「まず最初に考えることがどこでいつ食事の手配をするかであった。中継の最大の悩みと言っても良いほどであった」と言う。

[人口衛星受信に挑戦]
テレビ放送が始まった翌32年(1957年)5月、CBCは早くもカラーテレビ実験局開設の免許申請を行った。実際に放送が始まったのは昭和39年9月であるが、技術陣は息次ぐ間もなく多忙だった。このため、村松さんのアマチュア無線活動は細々としたものとなっていった。それでもいくつか楽しいことや驚くこともあった。

昭和33年(1958年)5月、村松さんは人工衛星からの電波を捉えようと上空に向けて八木アンテナを振りまわしていた。村松さんは「ソ連のスプートニク」というが、スプートニクは前年の11月に第2号が打ち上げられたものの、1日で無変調搬送波になってしまっていた。2月に米国のエクスプローラが打ち上げられており、この信号を受信しようとしていたらしい。

[B−29と交信]

B−29からの不思議なカード「WX772」

ただし、信号は微弱であり受信は容易ではなかった。村松さんも受信できなかったため、多少やけ気味になり、上空に向けて「CQノットアース。他の衛星を応答せよ。こちら地球のHAM、JA2AC」と遊び半分で送信した。ところがかすかな信号ながらJA2ACを呼んでいる。驚いた村松さんがアンテナを動かしながら「そちらはどこですか」と聞くと「はい、宇宙からです。時々、CQ宇宙を聞いています」と答える。

信じられないが村松さんは「地球が見えますか」と重ねて聞く。「青い空、白い雲、広い海、素晴らしい眺め、南の空です。見えますよ」と返事がくる。慌てて南の方を見るとB−29が飛んでいるのが見える。「B―29が飛んでいるだけで、星は見えません」というと「そのB−29です」という。「えっ、B−29」と聞きなおすと「グッドラック。QSL送ります。宇宙人とのQSO祈っています。73」と交信が打ちきられた。

半信半疑の村松さんの所にほどなくJARLのPO BOX経由で「WX772」のコールサインでQSLカードが届く。住所は米国カリフォルニアであるが、日本のはがきに印刷されたカードで、切手は米国、日本の米海軍基地の消印。裏面には名古屋上空5000フィートでRSTは477。リグは軍用らしい品番。村松さんは今でも「狐につままれているように思う。本当なら法違反ですからね」と言う。

[UA2AC]

「JA2AC」と読めてしまう「UA2AC」のコールサイン

Uの文字の左側が短いとJに見えてしまう。事実、そういうことが起こった。「米ソの冷戦が雪解けになったころから身に覚えのないカード続々と送られてきました」と村松さん。コールサインはUA2ACよりもJA2ACと読める印刷である。カリーニングラードに住むサージ・A・ベレンチェフさんのもの。

最初、村松さんは「アンカバー出現かと思った」と言う。JARLから宛先不明として送られてきたカードは、ベレンチェフさんのものであることがわかった。「JARLでさえ間違える出来映え」と、村松さんも変な感心をしている。


CBCのクラブ局「JA2YAA」のカード

[JA2YAA開局]
昭和35年(1960年)7月、ようやくCBCのアマチュア無線クラブにクラブ局(社団局)JA2YAAの免許が下りる。各地から要望されていたクラブ局が認められることが決まったのが昭和34年12月。初のクラブ局は東京の逓信博物館のJA1YAAであり、3月末の免許。第2号は「ハム女子大」のJA1YABだった。

「ハム女子大」は女性にもハムになってもらおうと、昭和32年(1957年)に東京・西武クラブが開校したアマチュア無線の講習会。受講者が急増して大盛況となり、多くの女性ハムが誕生した。名古屋でCBCアマチュア無線クラブがクラブ局を申請したのは4月1日だった。7月の免許は3番目といわれている。