20)村松さんのアメリカ時代(1)

[後発局からの見学]
東京の先行2テレビ局に対して、名古屋のCBC、大阪のOTVがそれに次いで開局。その後は続々と各地でのテレビ開局が相次ぐことになる。これらの後発局は初めての放送システム・設備を作り上げる参考にCBCやOTVを訪ねて見学・勉強をした。「まだ、キー局という言葉はなかったが、地方局にとっては東京の局は参考にならない。東京から番組提供を受けているCBCが規模的にも参考になる、と続々と来られました」と言う。

訪ねてきた技術社員には村松さんのようにハムが少なくなかった。送信機器など無線通信の技術をもつハムはテレビ局でも貴重な人材だったからである。九州からは井波眞(JA6AV)さん、信越からは阿部功(JAφAA)さんらが訪ねてきた。CBCはこれらの後発局の技術者にノウハウを惜しみなく提供したが、一方では先行している米国テレビ局に勉強のため、長期出張をさせていた。

[村松さん渡米]

ニューヨークのアパートでくつろぐ村松さん


クイーンズにあったNAHCクラブのメンバーとのホームパーティ午前2時、3時にもなることも

CBCが社員の米国への長期出張を開始したのは昭和35年(1960年)からであった。やがて始めるカラーテレビ放送をにらみ、米国の放送システムや放送機材を含むあらゆる分野のノウハウを習得するのが目的であった。このため、出張の人選も開局までの準備計画に沿って進められていた。村松さんはすでにCBCでカラーテレビ放送が開始された昭和43年(1968年)の出張となった。

とりあえず出発前に英語の特訓を受けるため、市内のYMCAの会話教室に6カ月間通う。村松さんは「現在の英会話を勉強している人の多くは、多少はしゃべれた方が良い、という目的の人が多いが、当時の受講者は海外で生活しなければならない、あるいは仕事に出掛けなければならないなどが理由であり、会話習得に必死だった。このため、厳しい勉強を強いられたが力はついたように思う」と言う。

[米国CBSでの研修]
研修先はニューヨーク・マンハッタン島にある米国3大テレビネットワークの一つCBS。セントラルパーク南端のCBSブロードキャスト・センターであった。「当時、CBSのイブニングニュースは、キャスターがウォルト・クロンカイトさんで、アメリカ大統領よりも信頼される男といわれていた」ことを村松さんは今でも覚えている。この現場ニューススタジオ46の実習見習が最初の任務であった。

「現在のNHK渋谷放送センターのようなもので、1700人ほどが働いていた」と言う。日本人は村松さん一人であり、目立ってしまって困ったらしい。それより困ったのは、警戒が厳重でいたる所に鍵があり、常にアポイントを取らなければ動けなかったことである。「日本では社長室以外はどこでも“やあ”と潜り込めたのに」と村松さんは日米の違いに戸惑った。

CBSのネットワークはロサンゼルス、シカゴなどの直接経営5社のほか、全米200局以上。このため、ニューヨークのニュースを中部、西部、ハワイなど広大な地域に供給しており、時差の関係から夕方から深夜近くまで送出をし続けている。「また、ワシントンなど世界中から入るニュースを次々と入れており、とにかく目まぐるしい」ことに驚いている。

[34台のVTR]
村松さんが渡米する前、CBCではニュースの送出はフィルム取材が中心であり、VTRは2〜4台程度しか使っていなかった。ところがCBSでは2インチのVTR34台をフルに活用していた。「当時は」ベトナム戦争たけなわのころで、CBS極東取材陣の撮影した生々しい映像が東京のTBS経由で衛星中継で入ってきていた。2度と見られない映像が流れてきていたが、オンエアでは当然ながらほとんどカットされていた」ことを覚えている。

技術部門全般にわたる6カ月の研修計画が作られた。テレビマスター、テレシネ、VTR、中継準備室、エンパイヤ―ステートビルの送信機、フィールドピックアップマイクロ中継室などを経験することになっていた。ある時回線保守の社員がブザーを使い「CQ、CQ」とテストしているのを聞き「ハムがいる」と興奮してしまった。



WA2YJZとWB2CUSの兄弟ハムと共同のカード

村松さんが「ハムがいるのですか」と尋ねると「100人ほどいます」と返事が返ってきた。村松さんが自らのコールサインを伝えると「CBSに日本のハムが勉強に来ている、というニュースが瞬く間に局内に広まった」と言う。その後は「勤務中、コーヒーブレーク、食事中はもちろん、夜のホームパーティなどハム仲間の交流の渦が広がり毎日が楽しかった」と言う。

[NAHC(ナショナル・アワード・ハンターズ・クラブ)]
昭和43年(1968年)3月、村松さんは国連ビル近くのホテルを引き払い、ロング・アイランドのクィーンズ・エルムハーストのアパートに住み始めた。マンハッタンとは複数の地下鉄で結ばれ、しかも24時間の終日運転で便利だった。ある日、村松さんは近くのアパートの屋上にハムのアンテナを見つける。訪ねるとハンク(WA2YJZ)ダン(WB2CUS)さんの兄弟だった。「まだ、独身のハンサムな青年であり、2匹の飼い犬はCQとQSTと名付けられていた」と言う。CQ、QSTともに米国のハム雑誌の名前である。夏ごろには村松さんにもなついてしまった。

地下鉄の一つ隣の駅、ホーレスト・ヒルズにはスミティ(WA2SNT)ルイーズ(WA2AZ)さんの夫妻局があった。NAHCの責任者で、アワードルームを持ち、地下には素晴らしい工作室がある。「米国のリタイヤー後の優美なハム生活を見た思いがした」と言う。そこでは毎週末には仲間が集まり、村松さんも定連の一人になった。夜を徹してのパーティが続くのが常であった。