24)民放のハム達(2)

[CBCの放送機器開発]
平成9年(1997年)6月、村松さんは足掛け43年にわたるサラリーマン生活を卒業した。浜松から名古屋に住居を移し、白黒テレビ放送、カラーテレビ放送を立ち上げる時代に放送技術の現場にあった。その間、ラジオ放送のステレオ化があり「AM放送のステレオ化には苦労した」と言う。

さらに、回路が真空管からトランジスターへ、機器のコントロールが手動からコンピューター時代へと変化する。放送技術では「ニューメディア時代」へと進む中で、テレビ放送の多重放送が始まった。現在はデジタル放送時代であるが、この急激な放送界の技術変遷の中で、CBCは多くの放送関連機器の開発を進めてきた。なかには村松さんも関与したものもあるので、そのいくつかを紹介してみたい。

昭和33年(1958年)ころから、CBCでは機器の小型化に取り組み始めた。まず、大きくて重いテレビカメラの改善を図った。イメージオルシコンを使った撮像部を肩に担ぎ、真空管の増幅部をランドセル型にしして背中に背負う「ハンディ・ビジョン」を開発した。このカメラは「第3回アジアオリンピック東京大会、大相撲名古屋場所の中継で威力を発揮しました」と村松さん。

その後、取り組んだトランジスター化では、トランジスター式イメージオルシコンカメラを世界で始めて試作、次いで簡易同期信号発生器、安定化電源回路のトランジスター化を行い、カメラに内蔵させている。さらに、マイクロ波送信機のトランジスター化も進め、この送信機によるヘリコプターからの送信などを実現している。

CBCのトランジスター回路化は他局に先んじていた。まだ、他局が音声部のトランジスターに取り組んでいた時に、映像・音声の全トランジスター化を完成させた第11スタジオを作り上げている。画期的だったのは、現在では民生用のビデオカメラやデジカメに採用されている画像を拡大・縮小する「エレクトロズーマー」を開発したことである。この功績に対して数々の賞が贈られた。

[CBCのCMバンク]
民放はCM収入で成り立っている。これだけは先輩放送局であるNHKにもない業務である。CMの販売から送り出しまでの処理は人手による人海戦術だった。このため、しばしば事故が起き頭を痛めた。テレビ放送が始まってから昭和50年(1975年)ころまではCMは16ミリフィルムが主体で、広告代理店から持ち込まれたフィルムはどの局でも2000種、10,000本という膨大な量をストックしていた。

一日に放送されるCMは数百本でそれを10人か20人の女子社員が放送順に編集していた。その後CM画像記録はビデオテープとなり、光磁気ディスク、さらにビデオメモリーへと進化する。これらのスタンバイ部門の責任者であった村松さんは「将来の目標を無人化とリアルタイム自動送出とし、開発に挑戦することになった」と言う。

東京では作間澄久(JA1BC)さんが率いる日本放送がチャレンジしていた。「お互いに抜きつ抜かれつの実用化競争になった」と激しかった開発競争を語る。完成したこの画期的な装置は「CMバンク」と呼ばれ、今日、民放では重要なセクションの一つとなっている。

[真空管コレクション]

村松さんの真空管コレクション。展示しきれない物も多い

村松さんの自宅シャック(無線室)の壁一面には真空管が所狭しと並んでいる。その数は現在1500種、3000本にも達する。「ラジオ少年であった昭和20年(1945年)代から就職した放送局まで、どれほど真空管にお世話になったことか。ともに笑い、ともに泣いたというとオーバーな表現であるが、それほどに身近な存在だった」と村松さんの真空管への思いは強い。

ところが真空管からトランジスターへの転換は急速であった。昭和54年(1979年)にはついに国内の受信管製造は終了した。村松さんの職場では真空管がまとめて捨てられた。村松さんはいつしかその真空管を拾い集め、コレクションとして保管を始めた。そのうちに「それを知った各放送局、機器メーカー、研究所などが協力して下さり、ここまで集めることができた」と言う。

[光電子増倍管]
そのコレクションの中にひと際大型で目立つ球がある。岐阜県の神岡にある当時のカミオカンデの観測装置に使われている光電子増倍管である。昭和62年(1987年)に世界で初めて超新星の素粒子ニュートリノを観測した小柴昌俊・東大名誉教授がノーベル物理学賞を受賞したことは知られている。


小柴教授は懐かしい光電子増倍管にサインをした

ところが、光電子増倍管は1000mの地底の20mの水中に設置されており、目にする機会はまずない。平成16年(2004年)4月、小柴教授は名古屋大学の豊田講堂で1500名の若き科学者を前に、研究の成果を披露した。この時、会場で小柴教授はこの光電子増倍管と再会することになる。持ちこんだのは村松さんであり再会を喜んだ小柴教授は、球にサインをしてくれた。

光電子増倍管は浜松市の浜松フォトニクスが開発、製造したものであり画期的製品として世界から注目されていた。コレクションに加えたかった村松さんは、静岡大学時代の同級生で浜松フォトニクスに勤務している横沢文男さんに入手を依頼。「不良品なら」ということで手に入れていたのである。